座頭市
片名: | 座頭市 |
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其它片名: | |
导演: | 北野武 |
编剧: | 北野武, 子母沢寛 |
制片人: | 森昌行, 齋藤恒久 |
摄影: | 柳島克己 |
美术: | 磯田典宏 |
声音: | 堀内戦治 |
主演: | 浅野忠信, ビートたけし, 橘大五郎, 大家由祐子, ガダルカナル・タカ, 大楠道代 |
音乐: | 鈴木慶一 |
片长: | 分钟 |
年份: | 年 |
类型: | |
国别: | 日本 |
语言: | 日语 |
格式: | |
制作机构: | 松竹, オフィス北野 |
影片概述 . . . . . .
ある宿場町に現れた、金髪頭に朱塗りの杖を持った盲目の按摩・座頭の市(ビートたけし)。居合の達人でもある彼は、そこで知り合った博打好きの新吉(ガダルカナル・タカ)やその叔母で野菜売りのおうめ(大楠道代)から、町民を苦しめるヤクザ・銀蔵(岸部一徳)一家の悪行の数々を聞かされる。更に、流しの芸者に身をやつし、両親の命と財産を奪った“くちなわの親分”を探す旅を続ける姉弟・おきぬとおせいの仇が銀蔵たちであると知った市は、彼らの為に一肌脱ぐことを決意。銀蔵とともに暴利を貪る扇屋、そして病身の妻の薬代を稼ぐ為に用心棒として雇われた浪人・服部源之助(浅野忠信)と戦い、一家を壊滅させる。こうして、平和が戻ったかに見えた宿場町。だが、市はくちなわの親分が飲み屋の雇われ爺さんを装っていたことを、見抜いていたのである。町民が祭りで盛り上がる中、飲み屋に押し入った市は、実は市が盲目ではないことを見破っていたくちなわの親分(柄本明)の目を斬ると、「一生盲で暮らせ」と言い残し、町を後にするのだった原作者は子母澤寛。子母澤は江戸時代に活躍した房総地方の侠客を取材するべく当地を旅した際に、盲目の侠客座頭の市に興味を覚え、彼について原稿用紙にして十数枚に書き記した。これが『座頭市』の原作となった。
これについて、1973年に出版されたキネマ旬報社の『日本映画作品全集』では、原作が『ふところ手帖』に1、2行だけ記されたものであったと説明(執筆=真淵哲)し、これが無批判に引用されて、広く信じられるようになった[1]。その結果、わずかな記述から座頭市シリーズを生み出した三隅研次はじめ映画制作スタッフを賞賛される根拠となった。
しかし実際には、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』(中公文庫 ISBN 4122002435)の中に短編小説「座頭市物語」が収録されていることから、「1行だけ」という記述は誤りとされている。「座頭市物語」は、中公文庫版では10ページの掌編小説である。子母澤は後年、「飯岡助五郎一家に盲目のばくち打ちがいて、目が見えないのに賽子の丁半をよく言い当てた」との古老の昔話が座頭市のヒントになったと書き残している。
映画・座頭市シリーズ
子母澤は、市について十数枚しか書き記しておらず、現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演で座頭市の物語が製作された時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝である。
平手造酒との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『座頭市物語』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わずニヒリズムも拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。
勝の主演での劇場版最大のヒット作は1970年の『座頭市と用心棒』。それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には三船敏郎と若尾文子が出演している。黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』で好演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は友情出演程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていた事に大変驚いたという。当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。
絶大な人気を勝ち得た理由は、瞬速の居合い斬り・大立ち回りにあるといっても過言ではない。仕込み杖・逆手刀殺法・盲目といった、特殊条件下による殺陣は、やはり特殊な風格を生み出す。また、このような殺陣を実現するには、かなりの武道の技量が必要となり、その技がより一層リアリティを引き立てている。目にも止まらない早業で敵を切り倒す座頭市のアクションと、シンプルにして人情悲喜劇としての要点もおさえたストーリー、そして豪華な演者達は多くの者を魅了してやまない。
1960年代の映画シリーズの音楽の殆どは伊福部昭が担当した。伊福部のダイナミズムと繊細さを巧みに使い分けた音楽は、勝が演じる座頭市の殺陣の迫力と人情味というキャラクターをそのまま投影している。
1989年には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。それまでのシリーズの名場面を盛り込んだだけものであるとの批判も一部にあったが、衰えないアクションにファンは喝采を浴びせた。しかし、立ち回りの撮影中に真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎が逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の制作映画となった。
大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。東映は、1963年に東千代之介主演の『めくら狼』を制作・配給[2]、松竹は、松山容子主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。
舞台版の座頭市
三池崇史演出、哀川翔主演。2007年12月3日から東京・新宿コマ劇場を皮切りに、大阪・梅田芸術劇場、愛知厚生年金会館の三都市にて上演された。
2009年、勝新太郎の愛弟子ともいわれた松平健が、名古屋御園座にて「正月開催の芸能生活35周年記念公演」で座頭市を演じることが決定している。
これについて、1973年に出版されたキネマ旬報社の『日本映画作品全集』では、原作が『ふところ手帖』に1、2行だけ記されたものであったと説明(執筆=真淵哲)し、これが無批判に引用されて、広く信じられるようになった[1]。その結果、わずかな記述から座頭市シリーズを生み出した三隅研次はじめ映画制作スタッフを賞賛される根拠となった。
しかし実際には、子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』(中公文庫 ISBN 4122002435)の中に短編小説「座頭市物語」が収録されていることから、「1行だけ」という記述は誤りとされている。「座頭市物語」は、中公文庫版では10ページの掌編小説である。子母澤は後年、「飯岡助五郎一家に盲目のばくち打ちがいて、目が見えないのに賽子の丁半をよく言い当てた」との古老の昔話が座頭市のヒントになったと書き残している。
映画・座頭市シリーズ
子母澤は、市について十数枚しか書き記しておらず、現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演で座頭市の物語が製作された時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝である。
平手造酒との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『座頭市物語』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わずニヒリズムも拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。
勝の主演での劇場版最大のヒット作は1970年の『座頭市と用心棒』。それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には三船敏郎と若尾文子が出演している。黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』で好演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は友情出演程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていた事に大変驚いたという。当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。
絶大な人気を勝ち得た理由は、瞬速の居合い斬り・大立ち回りにあるといっても過言ではない。仕込み杖・逆手刀殺法・盲目といった、特殊条件下による殺陣は、やはり特殊な風格を生み出す。また、このような殺陣を実現するには、かなりの武道の技量が必要となり、その技がより一層リアリティを引き立てている。目にも止まらない早業で敵を切り倒す座頭市のアクションと、シンプルにして人情悲喜劇としての要点もおさえたストーリー、そして豪華な演者達は多くの者を魅了してやまない。
1960年代の映画シリーズの音楽の殆どは伊福部昭が担当した。伊福部のダイナミズムと繊細さを巧みに使い分けた音楽は、勝が演じる座頭市の殺陣の迫力と人情味というキャラクターをそのまま投影している。
1989年には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。それまでのシリーズの名場面を盛り込んだだけものであるとの批判も一部にあったが、衰えないアクションにファンは喝采を浴びせた。しかし、立ち回りの撮影中に真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎が逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の制作映画となった。
大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。東映は、1963年に東千代之介主演の『めくら狼』を制作・配給[2]、松竹は、松山容子主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。
舞台版の座頭市
三池崇史演出、哀川翔主演。2007年12月3日から東京・新宿コマ劇場を皮切りに、大阪・梅田芸術劇場、愛知厚生年金会館の三都市にて上演された。
2009年、勝新太郎の愛弟子ともいわれた松平健が、名古屋御園座にて「正月開催の芸能生活35周年記念公演」で座頭市を演じることが決定している。
导演阐述 . . . . . .
获得奖项 . . . . . .
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幕后花絮 . . . . . . (上传花絮) (展开所有)
日本银幕上最著名的盲者形象,一定非盲侠座头市莫属。1960年代,大映公司国际化视野的历史剧路线穷途末路、每况愈下,它所遗留下来的最后一笔遗产,抑或说由其派生的副产物,就是剑戟片座头市系列。
座头市位处江户时代,但它所表现的人与事,则无不围绕地痞流氓的黑帮圈子展开。可以说这是大映公司顺应当时的“仁侠电影”风潮而对昔日规划所做的调整。与往昔另一个时代剧生产基地东映自从迎来仁侠电影时代便悉数摒弃先前传统的作法不同,大映始终立足于自己时代剧遗产的基石上。昔日受教于沟口健二、衣笠贞之助等人并承传其遗志的森一生、三隅研次、田中徳三等战中派、战后派导演,在具有剑戟片与仁侠电影双重属性的座头市系列中展开坚守时代剧传统的最后竞争。
“座头”位属盲人组织“当道座”四大头衔最末一级,是弹奏琵琶、筝、三弦琴,或以说唱、按摩、针灸为业的落发盲人的职称,而“市”为胜新太郎扮演的主人公的名字。
说到座头市就不能不提胜新太郎,倘使说黑泽明是时代剧导演领域的天皇,胜新则是时代剧演绎领域的天皇(1960年代,他同市川雷藏是大映时代剧最重要的存在)。一山不容二虎,原本要实现1980年代时代剧最强神话的《影武者》,终究因两位“天皇”的各不相让而化为泡影。尔后不得已由仲代达矢临时救驾。胜新在时代剧中塑造的人物不计其数,但他最深入民心的,还属盲者座头市的形象。1960年,胜新在森一生《不知火检校》中扮演盲者,经此热身,两年之后《座头市物语》进一步大显身手。该片为滥觞,大映公司以每年二至三部的速度生产续集,1971年大映破产后,胜新在其自组的“胜口”电影公司继续发表续作,甚至还拍出了关公战秦琼式的《座头市对用心棒》(“用心棒”来自黑泽明的剑戟片名篇)和《座头市大战独臂刀》(“独臂刀”为香港导演张彻的功夫片《独臂刀》)。1989年胜新亲自执导了堪称“决定版”的《座头市》,为座头市拉下了帷幕。期间座头市共被拍摄了26部,每一集都由胜新扮演盲侠。至于2003年北野武的新版《座头市》,则是他对盲侠出于私人目的的有趣戏说。
座头市其貌不扬、穿着邋遢土气,觑着眼睛,一副憨态可掬、低三下四的模样。表面上作为盲按摩师过活,仿佛起居都无法自理,但他身怀绝技、精于赌博,耍起钱来无人能敌,刀法更是举世无双,拔刀、砍人风驰电掣,还经常表演把掷向空中的蜡烛、铜币切成两截的绝活。虽然眼盲,但是明察秋毫,精明得很。赌钱也好,动刀也罢,往往别人欺负他残疾,却恰恰中了暗算。
座头市混在黑道,派系纷争总少不了他的参与,他天生一副热心肠,具有扶贫除恶的行侠仗义精神,别人有难总会出手相救。每当这时刀法也就派上用场了。
座头市有时与帮闲们群殴,有时同高手单挑,不管群殴还是单挑,时常会被对手搞得苦不堪言狼狈不堪。他最畏惧被人偷袭,有时冷枪吓得他屁滚尿流,一旦有杀气靠近,他便迅速出刀应敌。刀剑无眼,杀伤力很强的“盲人刀法”更是难免伤及无辜。具有讽刺意味的是,1989年在胜新太郎最后一部《座头市》拍摄现场,竟发生了真刀误伤武打演员并导致其死亡的事故。胜新独具一格的盲人反手刀法,也不得以从此宣告结束。 1.座头市物语 1962.04.18 黒白 三隅研次,犬冢稔
2.续座头市物语 1962.10.12 黒白 森一生,犬冢稔
3.新座头市物语 1963.03.15 田中徳三,犬冢稔 梅林贵久夫
4.座头市凶状旅 1963.08.10 田中徳三,星川清司
5.座头市喧哗旅 1963.11.30 安田公义,犬冢稔
6.座头市千両首 1964.03.14 池広一夫,浅井昭三郎 太田昭和
7.座头市あばれ凧 1964.07.11 池広一夫,犬冢稔
8.座头市血笑旅 1964.10.17 三隅研次,星川清司 吉田哲郎 松村正温
9.座头市関所破り 1964.12.30 安田公义,浅井昭三郎
10.座头市二段斩り 1965.04.03 井上昭,犬冢稔
11.座头市逆手斩り 1965.09.18 森一生,浅井昭三郎
12.座头市地狱旅 1965.12.24 三隅研次,伊藤大辅
13.座头市の歌が闻える 1966.05.03 田中徳三,高岩肇
14.座头市海を渡る 1966.08.13 池広一夫,新藤兼人
15.座头市鉄火旅 1967.01.03 安田公义,笠原良三
16.座头市牢破り 1967.08.12 山本萨夫,中岛丈博 松本考二 猿若清方
17.座头市血烟り街道 1967.12.30 三隅研次,笠原良三
18.座头市果し状 1968.08.10 安田公义,直居钦哉
19.座头市喧哗太鼓 1968.12.28 三隅研次,猿若清方 杉浦久 吉田哲郎
20.座头市と用心棒 1970.01.15 冈本喜八,冈本喜八 吉田哲郎
21.座头市あばれ火祭り 1970.08.12 三隅研次,山田隆之 胜新太郎
22.新座头市 破れ!唐人剣 1971.01.13 安田公义,山田隆之 安田公义
23.座头市御用旅 1972.01.15 森一生,直居钦哉
24.座头市物语 折れた杖 1972.09.02 胜新太郎,犬冢稔
25.新座头市物语 笠间の血祭り 1973.04.21 安田公义,服部佳子
26.座头市 1989.02.04 胜新太郎,胜新太郎 中村努 市山达巳
座头市物语
作为《座头市》系列的最初之作,《座头市物语》并没有想象中的那么用力,单从内容上看,它更像一个系列的结束而不是开篇。1966年《座头市物语》的公映成功,撇开时代因素不谈,现在看来包含了极大的偶然性。尽管因为《不知火检校》中胜新太郎所饰演盲人角色的成功,盲人作为电影主角也可能大受欢迎,但把子母泽宽的原作搬上大银幕,还是包含了极大的风险。没有人知道后来会发生什么,三隅研次似乎也没有作出长期抗战的准备,这促使他必须仅在这部电影内就完成这个血肉丰满的人物,而不是尽可能多的制造感官刺激和留下悬而未决的难题。
一开始,《座头市物语》就有了迥异于时代剧传统的趣味。塑造座头市这一人物的重心,必须让他变得矛盾而暧昧。除了外型的差异以外,三隅研次将给予他更多的、与时代剧中正统英雄不同的形象,手法上也将脱离传统的起承转合,不追求情节的波谲云诡,而是追求可控制的节奏和速度,强调细节的表现力,同时尽可能赋予人物较浓的悲壮色调。这一切,在未知的前提下,都将成为后来系列剧的通用准则。
在《座头市物语》中,对于座头市这一人物形象的刻画,三隅研次是先抑后扬。首先正面刻画他的无赖形象,然后侧面交待他大剑客的身份,以此制造落差为高潮动作戏作铺垫,同时也制造适当的疑惑以调动观众。在结构上,以帮派争斗为主线,再在其中加入座头市与剑道高手平手之间的友情、与女人小玉之间的爱情以及田太的杀妻事件。这种看似散漫零乱的叙事,为故事带来一层舒缓的节奏,使三隅研次得以有充足的时间和空间来深入人物,用情感动力来推动故事情节的发展,有效加强了故事的感染力,为电影整体蒙上一层悲剧气息,与结局时座头市弃刀而去的情节相呼应。这缕悲情的末世气息,对代表武士荣耀但穷途末路的平手这一人物的细致刻画,以及其中包含的弃旧与欲舍还留的复杂情绪,极有可能就是其当年在广受欢迎的原因之一。
基于上述因素,三隅研次在片中并没有安排太多的剑斗场面,座头市拔刀的场面仅仅在片中出现三次:一次是表演刀法;一次是杀掉两个前来杀他的黑帮份子;一次是与惺惺相惜的平手之间的决斗。两场打斗戏不长,三隅研次导起来也是干净利落,其中大决斗一场的调度最见心思。首先用一个接近360度的摇摄交待局势,然后将决斗的两人放入一个看似开放实则封闭、同时能有效突出的空间内;再根据决斗时的情势变化,三隅研次将其划分为三个段落,分别用一个远景、中远景、中近景来对应呈现交手的第一回合、第二回合以及平手死后场内的情形,中间以人物反应的特写镜头作分割(包含数量变化)。这种渐进的、具有动感的镜别强化了剑斗场景的紧张氛围,将我们带入故事内部也带入人物内心,在场景内营造出一个由弱到强的情感高潮。
由于《座头市物语》的大受欢迎,续集的拍摄成为可能,可以预见的是,三隅研次的继任者们必然会加强娱乐性,而且愈往后,愈是会在这一道路上求新求变。在这其中,剑斗与幽默,将成为故事着力表现的重要元素。因此不论是作为《座头市》系列的开篇之作,还是作为时代剧泰斗的三隅研次众多作品之一,《座头市物语》始终具有自己独特的韵味。在商业与艺术泾渭分明的今天,这一点愈发弥足珍贵。
续座头市物语
在《续座头市物语》中,导演由上一集的三隅研次换成了森一生。按照通常的做法,在前集获得成功以后,续集会原班人马上阵,这个换人必然包含了许多缘由。在我看来,首先当年导演地位并不是那么的“作者”,对于一部作品成败的影响,在掌控大局的人的认知中也没有去到关乎成败的地步;其次在流水线作业的情况下,大制片厂每年都有许多作品投入制作,旗下的导演常常会有分身乏术的现象,这个时候自然会挑选适当的人选递补上来。
将森一生作为三隅研次的替代者,是一个颇为合理的决定,正是在森一生导演的《不知火检校》中,胜新太郎获得了他演员生涯中最大的转机。得益于这个契机,他找到了自己介于实力派与偶像派之间的定位,从此步入了全新的天地。在幕后阵容里,还有一个值得留意的名字,助导井上昭,日后他导演了《座头市二段斩り》。
在这两部电影里,故事具有一定的延续性,除了座头市以外,部分次要人物也得到了延续,但整体上的结构变化极大。《续座头市物语》把座头市和以完户为代表的帮派之间的矛盾作为主线,这种建构相对前一部中两个帮派之间的斗争而言是一个极大的改变,他的对立面不再是一个人,而是包括了不同阶层不同目的的群体。它改变了座头市作为参与者的被动性,而是把其放置到了一个相对主动的位置之上,这个改变突出了座头市的英雄形象,商业的味道更加明显。副线则包括了座头市和四郎之间的恩怨、座头市和小玉之间的重逢。
两部电影同中存异,但经过不同导演的梳理,出来的感觉大相径庭。在前作里,三隅研次更强调两个男人之间的友谊;到了森一生手中,这个元素被削弱了,尽管还存在同样的人物关系,相对突出的却是两个男人类似的命运,被一件小事改变了的悲情人生。这其中通过两个男人与一个妓女之间的三角关系,巧妙交待两人过往的恩恩怨怨,是妙笔所在。单就这些改变了的东西而言,难以区分两部作品的优劣,但三隅研次在《座头市物语》中体现的个人风格无疑更加浓郁一些。
《续座头市物语》中座头市拔刀的场次增加到了六场,相对《座头市物语》几乎倍增。这种设置破坏了了三隅研次精心构建出来的平衡感,娱乐性更强,但整体的冲击力却不一定具备同样的效果。在高潮的剑斗场景里,森一生的调度明显逊色不少。在座头市与四郎的对决一场里,在交待完所涉及的人物后,先用近景、特写表现两人的对峙,然后用大远景交待空间关系;在打斗上,同样分成数个段落,分别用大远景、中景、近景来表现;途中插入场内人物的反应来加强紧张气氛以及情感动力,营造出一个开放的叙事空间,同时做出分隔。在决斗末尾,又引入新的情节,将高潮延续到下一幕中,是一个相对成功的处理。与三隅研次的表现手法比较,戏剧性略为相当,表现力尤其是情感层次上的表现力则弱了许多。在时代剧里,动作戏里的情感处理、对空间的利用、与整体的呼应等等,我觉得是区分作者与非作者、大师与匠人重要的准绳。
比较两部作品,《续座头市物语》中对座头市与两个女人之间的情感戏处理得更加合理一些,这也是森一生相对三隅研次的成功之处。《座头市物语》中座头市与小玉之间的感情铺垫的略为不足,这与《座头市物语》中的情节副线更多也不无关系。
新座头市物语
这是座头市系列的第一部彩色电影,执导这一具有历史性意义作品的幸运儿是田中德三。在看过的资料中,有提到他作为沟口健二弟子的身份。在风格独异的座头市系列中,强调这一背景,无疑有些舍近求远的感觉。先不论他的这一身份是否能够帮助他执导出一集出色的《座头市》,在片场制度健全而呆板的人才培养体系里,师徒关系不存在任何实际的意义,个人风格的形成具有极大的偶然性;田中德三不仅担任过沟口健二的副导,同样也担任过黑泽明的副导。在《新座头市物语》中,田中德三的首要任务是延续并完善座头市风格,而不是间接将它与大师们扯上关系。
切断藕断丝连的脐带,再来看田中德三的《新座头市物语》,它无疑是一部相当出色的电影。这个出色,甚至超出了座头市系列的范畴。与前两部比较,田中德三在片中运用了许多新的技巧,最突出的是大量的移动镜头,移动镜头内部还同时包括了移动与静止,这种动与静的交替使用,结合剪辑,加强了影片的动感和节奏;另一个令人印象深刻的是较多的使用了主观视点,尤其是在座头市身上,这一点极具抒情意味。同时田中德三在构图、调度上也更花心思。通过这些手法使一些有意被强调的细节,在不占用叙事时间的前提下构成了一个坚实的时代背景,在时代剧之外还营造出强烈的现实主义色彩。这里面值得一提的场景是开篇的交待性段落,镜头、调度、剪辑运用得相当出色,细腻的时代风情得以悄无声息的进入。在这个段落里,音乐的表现力也相当出彩,为影片的基调作出适当的铺垫。在《新座头市物语》中,虽然对配乐的使用跟前两作类似,但选择的时机与场景却恰到好处,使得表现力倍增,这种突出的运用在座头市系列中还是头一次。
在叙事上,编导同样安排了多条线索,首先进入故事的是前来寻仇的完户,这延续了前作留下的一些情节,然后是奥村筹钱一段,与之平行发展的是座头市与弥生的爱情。与前两作比较,这三条线的相互结合更加紧密一些,而且相互间的影响更大,这也使得故事结局时高潮不断,完全具备了独立成趣的效果。《新座头市物语》的剧本同样由犬冢稔主笔,但加入了梅林贵久夫,这个组合阵容的表现明显强过了前两部中犬冢稔的单打独斗。这是长处,同样的也是短处。座头市系列有个明显但是独特的趣味:浅淡,它表达的感觉是哀而不伤的,它赖以存在的结构是开放的。在《新座头市物语》,多条线索的紧密结合,导致了一个主调的纯悲剧结局,这就是座头市与弥生没有结果的爱情。这个结果看似开放,实则封闭了座头市的情感。这种处理使《新座头市物语》具备了独立成趣的基础,但却严重影响了座头市系列的后续故事。首先,同样的情节再次发生时,它的悲剧力量就不强烈了,而且不够可信;其次,它在悲剧的方向上跳跃性的去到一个层次,封闭了后来故事表达同样情感的可能性,被迫更多的选择在喜剧的方向上发展。作为座头市系列的承前启后之作,太多的顾虑自身却忽略了后来者的需要,算是一个不大不小的败笔。座头市与弥生的这一段情感,极为动人,这与田中德三的叙述手法有极大关系,但同时也得益于故事设定,即幕后故事的留白。在叙述上,用于这段情节的叙事时间与前两部相近,当有铺垫不足的情况出现时,幕后故事自行的弥补上这一漏洞。
在人物形象上,这部影片加强了对座头市性格的刻画,尤其是通过一些别有趣味的小细节。例如座头市在弥生面前喝酒时换大杯、毫无顾忌的贪婪喝相;在武士拒绝为按摩付费时,他把水倒在他们的床褥上表现出来的小心眼,这与盲人的身份是相符的;另一面还有他弹琴、吹笛等感性的细节,这些细节应该与胜新太郎对人物长期的揣摩有关。次要人物的刻画同样有精彩之处,座头市在表演刀术后,弥十郎扔下几个钱币的举动就完全暴露了他内心深处对座头市的轻蔑,同时为他反对弥生与座头市的爱情埋下伏笔。
在这些情节内,隐藏着一个颇具价值的主题。如果说田中德三真的从沟口健二身上继承了一些东西,我觉得这个地方才真的可资一谈,这就是对大时代背景下女人悲惨命运的刻画。弥生的悲惨爱情是其中之一,她出身浪人家庭,在没有感情基础的前提下被哥哥安排嫁给富户,门户观念已经初具讽刺意味;当她决定嫁给座头市,同样又被弥十郎以门户不当所阻时,对残旧观念的嘲讽表露无遗。旅店老板娘的命运是另外之一,她深爱弥十郎,为他背叛了丈夫,甚至遭到丈夫的追打,但弥十郎却对她毫无情感,始乱终弃,视其为泄欲工具;当弥十郎被完户讥讽为小偷,他恼羞成怒中杀了完户;当他再次回到旅店时,老板娘在他面前狠狠地把门关上,这代表了某种程度的女人觉醒和更深一层的错爱。这两个追求真爱却得不到结果的女人,是那个男权至上时代里女人悲剧的缩影,具有极强的代表性。尤其值得称道的是这种刻画并非正面进行,而是不经意间的寥寥数笔,就已经形神兼备。
动作戏方面,座头市拔刀的场景共有六次,其中一次为表演,一次是挥刀抒发内心的郁闷。剑斗场景有四次,前两次都是与寻仇者的厮杀;后两次则是连续发生的,先是一人挑战多人,而后面对本集中的最强对手弥十郎。在一对多的打斗中,田中德三的表现手法与前两部大相径庭,这段打斗分成了四节,前三节以近景为主,后一节则以中景为主。在前三节中,与前两部单一镜头的固定景别比较,田中德三以手提摄影加强了其中的运动。场景中除了人物的运动外,还结合了摄影机的运动,并以剪辑将两者结合。其中摄影机的运动又包括了纵向、横向、弧形等多种形式,以此突出空间感、场内的气氛以及人物的内心活动。这些小节以交叉叙事的平行情节分隔,在平行情节里又以静与动的对比来构建节奏,与打斗情节里的节奏相呼应,有效融为一体,同时也将平行情节合拢在一起。虽然精炼程度不及前两作,但视觉效果却远远胜出。
由这部作品开始,座头市的拔刀场景基本形成了套路,其中必不可少的部分包括了一次刀术表演,一次与追杀者的小规模剑斗,一次以一敌多的大规模剑斗,一次与最强敌人的颠峰对决。同时可以肯定的,从《新座头市物语》开始,后来者对剑斗场景尤其是大规模剑斗场景的指导,将脱离前两部黑白电影的简单趣味,而是以田中德三的这一场为标准来进行设计。
小结:《新座头市物语》是一部接近杰作的时代剧,作为座头市系列之一,它的旨趣完全超越了座头市系列的平均水准,具备了一定的思想性。但如果用时代剧杰作的标准来衡量它,它的形式又显单薄。表面上看是“座头市的形式” 所带来的限制,实际上也是田中德三自身的局限。他在这部电影里所表现的华丽感,其实远远及不上三隅研次简洁洗练所表现出来的庄重。后者那种严谨的形式感,不会因为时间而褪色。
座头市凶状旅
受益于《新座头市物语》的成功,田中德三得到连续执导座头市电影的机会。这在座头市全系列26部中只发生过两次,连执导次数最多的三隅研次和安田公义都没有得到过这种机会。这种导演的连续性带来的好处显而易见,风格得到延续,在彩色电影的时代里为整个系列奠下可沿用的基调。但坏处也显而易见,个人风格将影响座头市风格的走向;同时执导出一部失败之作的可能性更高,尤其是在前作相当成功的基础上,因为观众很容易将两者拿来对比。在这种情况之下,执导《座头市凶状旅》的田中德三需要表现出更令人信服的实力,才能令观众得到超越《新座头市物语》留下的观感。
这是个难以达成的任务,首先是因为他在《新座头市物语》中的表现令人惊讶,能力已经得到最大限度的展示;其次,前面我们已经提过,《新座头市物语》的纯悲剧性结局,超出座头市系列的旨趣,为后来者设下了陷阱,而田中德三自己首当其冲的踏了进去。从后者的角度看,《座头市凶状旅》存在两种不同的可能性结论,其一可以认为田中德三完成了对前作的悲情超越,同时也可以认为他的努力失败了。
剧作方面,前三集中的主要剧作者犬冢稔退居到了幕后的幕后,担当起“润色”的角色,编剧由星川清司担纲。这一改变对应的是故事情节的改变,《座头市凶状旅》讲述的故事主线又回到了黑帮之间地位的争斗,座头市再次回归参与者角色。在故事副线方面,对应这一调整,先崎与阿信的爱情故事也成为情感方面的主线,座头市与小玉的重逢退居到二线。我个人认为这一改变不是很成功,它首先是因应《新座头市物语》结局作出的某种妥协。尽管这段感情的刻画本身是成功的,但对于座头市的形象刻画并无太多助益,它本身有独立成趣的效果,用于对比效果不是很突出。
受限于《座头市凶状旅》的脚本,田中德三无法在其中找到新的突破口,将之上升到思辨的高度,他必须重新回到“座头市趣味”上来,在受限制的空间内追求新的内容。撇开形而上的艺术追求,回到时代剧的路途之上,这无益有助于座头市系列的生命力。在这一点上,《座头市凶状旅》也并非孱弱不堪,其中依然存在许多的亮点。在本片中,编导为座头市塑造了一个新的对手,这个对手不再具有复杂的多重身份,而是单纯的作为对手存在。这种处理加强了时代剧的趣味,两个高手之间的对决成为一个精彩的看点。对于以剑斗为卖点的时代剧,这种平衡的人物设置极为重要,它扭转了前三集中主要人物纠缠而复杂的关系,将对决简化为正与邪的对决,避免了因为纠葛关系所产生的低调结局,将悲剧性集中到了座头市的生活(尤其是爱情部分)之中,他无需杀掉朋友与亲人,生活本身就已经具备了足够的悲剧意味。这为后来者提供了足够大的空间,来加强电影中的剑斗场面与喜剧趣味。
当 “座头市趣味”重新成为故事重心,细节就再次具有了亲民的味道,幽默场景俯拾皆是。但这些东西显然不是田中德三所长,当它好看的同时也产生单薄的感觉。只有到了适合他的部分,他的意趣才得以一露峥嵘。在故事最后,当阿信与先崎送座头市上路,他在窄路之上跳起了欢快的舞蹈,似乎为成就一对情人而兴味盎然。镜头一转,喜悦的脸色立刻变为悲呛,然后强颜欢笑,又再悲,却还是手舞足蹈……短短一节,情绪数变,内心世界暴露无遗,堪为写情妙笔。
造成座头市这种心理状态的情节,正是朝仓临死前告诉他的:布局引座头市入觳的,正是他的旧情人小玉,那个他认为没有被时间改变的人。这是个有力的细节,意义却有两个截然不同的结果:正是在前面提过的,对前作悲情的超越,同时也是失败的超越。这个细节包含了两种可能,可以为真也可以为假,为假就跟结局那个意味深长的场景发生了冲突,为真自然就是合理的,它跟结局构成了呼应关系。这个细节在此加深了人物的复杂性,本身也是含混的。跟前三集比较来看,它们讲的是悲情,但情是真,《座头市凶状旅》讲的则是情之假,论残酷性它超过了前作,自然也就是更深的悲剧。但为何又称其为失败的超越呢?因为前三集讲情之悲,情真意切,《凶状旅》讲情之悲,则建立在人性的另一面之上,它破坏了座头市系列的那种单纯的“哀而不伤”,就像打开了一个潘多拉盒子,从这里开始,人心的两面、为达目的不择手段等等不受规则所限制的事情都在后续之作里出现。含混的处理影响尤其长远,如果是清晰的,无论真假,编导还可以在下一个故事扭转观众的认知;但含混却产生不确定的效果,一旦后续故事里有类似的情节出现,观众始终会存疑。
这种巨变的背后,其实包含着一种无奈的叹谓,正是一个时代正在开始消逝的意象。曾经单纯的美好正在变得复杂,曾经坚守的东西正在被侵蚀,就象刀的时代向枪的时代过渡、英雄的时代向小人的时代过渡一样。如果它不是指座头市存在的时代,就代表了创作者们身处的时代,某种意义上还包括了发现者身处的时代。其中究竟是何所指,无从考稽。这种个人的东西,改变了故事的走向。从这里开始,座头市单纯的、美好的、在《座头市物语》等故事中还可歌可咏的世界,将不复存在。开篇中的毒太阳、干涸的田地,尾声中的落寞舞蹈,也许正是这种转变里自觉与不自觉的体现。
在本片中,座头市拔刀的场次减少为四次,基本上就是剑斗模式中包含的全部,由于后两场打斗同时包括了与最大敌人、最多对手的内容,实际上也算是与前作持平了。除了杀掉为赏金而来的小角色外,其他三次都同时包括了座头市最大对手朝仓的拔刀,这是一种极为均衡的设计。剑术表演中朝仓落了下风;在第一次混战中朝仓再度出手,各自受伤算是平手;在最后的决斗中,他斩断座头市的杖刀占了上风,最后却死于座头市的刀中刀之下。这个细节也是具有颠覆性意义的设置之一,同样的设置还包括了枪的进入。这几场剑斗并没有比《新座头市物语》中更精妙的调度,唯一印象深刻的地方在于整场打斗包含进了不同的场地:封闭的房内、空旷的沙地以及水塘,这种高潮段落的时空处理显然会极大的影响后来者的设计。
比较起《新座头市物语》,田中德三在本片中的表现并未能延续同样的精彩,但这应该才是他真正实力的反映。除开导演的因素,《新座头市物语》的成功令一半应该归功于犬冢稔与梅林贵久夫的剧本。而《凶状旅》的可贵之处在于,它把前作中收窄了的叙事空间,又再度拓宽了,虽然其中包含了许多的破坏。这两部作品中参差不一的表现,包含了许多偶然与必然的联系,田中德三一个人就承担了其中的因果。所以缘分也就就此终止,直到三年后他才得到机会执导座头市系列的第十三集《座头市の歌が闻える》(《听见座头市之歌》)。
座头市喧哗旅
女为悦己者容。这是一个老套的细节,却是恋爱中的女人内心世界的真实外现。当美津在桌子边对着镜子整理仪容,等待座头市归来时,那一刻就像鲜花绽放一样的美妙。即使对方是个瞎子,根本看不见她细心整理过的发髻,但那份娇羞与温柔里的微妙少女心事,却在银幕上可感可触。或许就是这个细节的存在,把美津与座头市的这一段感情映衬得鲜活动人。
在《新座头市物语》的悲情之后,我以为叙述座头市的感情对后来者而言将是件困难的事情,现在看来只是杞人忧天。安田公义用了最简单的做法,那就是重新回到起点,重构一段感情生活的点点滴滴,用细腻的铺陈让人心无旁骛,以至于忘掉过往的种种不愉快。捎带着,安田公义也让《座头市喧哗旅》重新回到正确的轨道之上:哀而不伤,淡而有味。这一段情感,是迄今为止座头市系列中刻画得最美好的一段情感,其中包含了起点、磨难、波折、理解以及孤独旅程中不自觉的依恋种种状态,它是动人的,也是合理的。
得益于犬冢稔的回归,座头市也回到一贯的趣味之上,得以在既定的方向之上更加深入。最明显的变化,在杖刀之外,座头市还多了一个烟斗。这种设置进一步降低了他身上的严肃性,身份也更加的平民化。对应这种微妙的改变,他的性格也有了新的发展,安田公义将通过种种细节塑造更复杂的、反差更大的人物形象。对于系列剧而言,这样的改变无疑是有益而有趣的。
在这种趋向之上,座头市作为一个男人,好色但乐而不淫的一面被不无戏谑的放置到了故事中。当他把受骗的美津从黑帮中解救出来,他愤怒的指责她不信任自己;吃尽苦头的美津完全软化,扑进他怀中寻求安慰,座头市顺手或者根本就是趁人之危的抚摸起她的脸来……在这段感情在走向终点的时候,座头市理智的选择了离开,却又偷偷地拿走美津丢失的镜子,作为寂寞旅途中快乐的回忆……在安田公义巧妙的叙述之中,这种典型的座头市悲情完全消除了其中的悲调,而是有了“送人玫瑰,手有余香”的回味。
当故事内部的情感基调被确定,整体自然就偏离了正剧的方向。在故事开篇,安田公义用一个较长的镜头讲述座头市如何改变路向开始,近似默剧的效果就产生了一丝喜剧的味道。在故事进程之中,当座头市的形象被复杂化以后,为故事结局的选择带来极大空间。当美津被黑帮掳获,对方逼迫座头市临阵倒戈时,他好整以暇的周旋在两个黑帮之间,这不但无损他的英雄形象,反而在其中营造出一丝荒谬感,与故事整体的喜剧风格形成呼应,同时将座头市这一人物更进一步的个性化。
在结构上,虽然故事也包括了两个黑帮争斗的情节线,但重要性在座头市与美津的情感线之后,处于从属地位,表层的情节是以护送美津到江户的任务为主线。这个受托付接受任务而被卷入到漩涡中的情节,将在后来的故事中成为必备情节之一。在剑斗场次方面,座头市拔刀的次数为六次,其中最后的大混战包括了几个不同的段落,最大的改变是去掉了最大对手的设置。在这其中,故事开篇就安排了座头市拔刀的场面,使时代剧的剑斗卖点更加突出,肯定会为后来者们大肆应用。
在剑斗场景的调度方面,安田公义最突出的是加入了对场景中存在的器物的利用,同时也更强调剑斗的气氛,这个主要通过静与动的对比完成。在手法上,最令人印象深刻的是座头市在河滩边杀掉三个前来偷袭的武士。这场戏首先处理成一个温馨的场面,然后通过人物的反应将气氛逆变,再通过蜻蜓的起落确立剑斗的起止时间,通过一瞬间对比其中惊心动魄的生死逆转,简单又强而有力。最后的街巷大混战、座头市周旋于两个黑帮之间的场景,安田公义应该从黑泽明的《用心棒》中得到很多启示。
对比前作,《座头市喧哗旅》在整个座头市系列中具有极其重要的地位,首先它恢复了人性的美好,将座头市系列的价值取向重新推上正轨,为后来者留下了可供沿袭、又可自由发挥的巨大空间;其次它加强了座头市电影的时代剧特征,这远比加强座头市电影的思想性更具有实际价值。
——2009-05-14 15:26:54,4444上传
座头市位处江户时代,但它所表现的人与事,则无不围绕地痞流氓的黑帮圈子展开。可以说这是大映公司顺应当时的“仁侠电影”风潮而对昔日规划所做的调整。与往昔另一个时代剧生产基地东映自从迎来仁侠电影时代便悉数摒弃先前传统的作法不同,大映始终立足于自己时代剧遗产的基石上。昔日受教于沟口健二、衣笠贞之助等人并承传其遗志的森一生、三隅研次、田中徳三等战中派、战后派导演,在具有剑戟片与仁侠电影双重属性的座头市系列中展开坚守时代剧传统的最后竞争。
“座头”位属盲人组织“当道座”四大头衔最末一级,是弹奏琵琶、筝、三弦琴,或以说唱、按摩、针灸为业的落发盲人的职称,而“市”为胜新太郎扮演的主人公的名字。
说到座头市就不能不提胜新太郎,倘使说黑泽明是时代剧导演领域的天皇,胜新则是时代剧演绎领域的天皇(1960年代,他同市川雷藏是大映时代剧最重要的存在)。一山不容二虎,原本要实现1980年代时代剧最强神话的《影武者》,终究因两位“天皇”的各不相让而化为泡影。尔后不得已由仲代达矢临时救驾。胜新在时代剧中塑造的人物不计其数,但他最深入民心的,还属盲者座头市的形象。1960年,胜新在森一生《不知火检校》中扮演盲者,经此热身,两年之后《座头市物语》进一步大显身手。该片为滥觞,大映公司以每年二至三部的速度生产续集,1971年大映破产后,胜新在其自组的“胜口”电影公司继续发表续作,甚至还拍出了关公战秦琼式的《座头市对用心棒》(“用心棒”来自黑泽明的剑戟片名篇)和《座头市大战独臂刀》(“独臂刀”为香港导演张彻的功夫片《独臂刀》)。1989年胜新亲自执导了堪称“决定版”的《座头市》,为座头市拉下了帷幕。期间座头市共被拍摄了26部,每一集都由胜新扮演盲侠。至于2003年北野武的新版《座头市》,则是他对盲侠出于私人目的的有趣戏说。
座头市其貌不扬、穿着邋遢土气,觑着眼睛,一副憨态可掬、低三下四的模样。表面上作为盲按摩师过活,仿佛起居都无法自理,但他身怀绝技、精于赌博,耍起钱来无人能敌,刀法更是举世无双,拔刀、砍人风驰电掣,还经常表演把掷向空中的蜡烛、铜币切成两截的绝活。虽然眼盲,但是明察秋毫,精明得很。赌钱也好,动刀也罢,往往别人欺负他残疾,却恰恰中了暗算。
座头市混在黑道,派系纷争总少不了他的参与,他天生一副热心肠,具有扶贫除恶的行侠仗义精神,别人有难总会出手相救。每当这时刀法也就派上用场了。
座头市有时与帮闲们群殴,有时同高手单挑,不管群殴还是单挑,时常会被对手搞得苦不堪言狼狈不堪。他最畏惧被人偷袭,有时冷枪吓得他屁滚尿流,一旦有杀气靠近,他便迅速出刀应敌。刀剑无眼,杀伤力很强的“盲人刀法”更是难免伤及无辜。具有讽刺意味的是,1989年在胜新太郎最后一部《座头市》拍摄现场,竟发生了真刀误伤武打演员并导致其死亡的事故。胜新独具一格的盲人反手刀法,也不得以从此宣告结束。 1.座头市物语 1962.04.18 黒白 三隅研次,犬冢稔
2.续座头市物语 1962.10.12 黒白 森一生,犬冢稔
3.新座头市物语 1963.03.15 田中徳三,犬冢稔 梅林贵久夫
4.座头市凶状旅 1963.08.10 田中徳三,星川清司
5.座头市喧哗旅 1963.11.30 安田公义,犬冢稔
6.座头市千両首 1964.03.14 池広一夫,浅井昭三郎 太田昭和
7.座头市あばれ凧 1964.07.11 池広一夫,犬冢稔
8.座头市血笑旅 1964.10.17 三隅研次,星川清司 吉田哲郎 松村正温
9.座头市関所破り 1964.12.30 安田公义,浅井昭三郎
10.座头市二段斩り 1965.04.03 井上昭,犬冢稔
11.座头市逆手斩り 1965.09.18 森一生,浅井昭三郎
12.座头市地狱旅 1965.12.24 三隅研次,伊藤大辅
13.座头市の歌が闻える 1966.05.03 田中徳三,高岩肇
14.座头市海を渡る 1966.08.13 池広一夫,新藤兼人
15.座头市鉄火旅 1967.01.03 安田公义,笠原良三
16.座头市牢破り 1967.08.12 山本萨夫,中岛丈博 松本考二 猿若清方
17.座头市血烟り街道 1967.12.30 三隅研次,笠原良三
18.座头市果し状 1968.08.10 安田公义,直居钦哉
19.座头市喧哗太鼓 1968.12.28 三隅研次,猿若清方 杉浦久 吉田哲郎
20.座头市と用心棒 1970.01.15 冈本喜八,冈本喜八 吉田哲郎
21.座头市あばれ火祭り 1970.08.12 三隅研次,山田隆之 胜新太郎
22.新座头市 破れ!唐人剣 1971.01.13 安田公义,山田隆之 安田公义
23.座头市御用旅 1972.01.15 森一生,直居钦哉
24.座头市物语 折れた杖 1972.09.02 胜新太郎,犬冢稔
25.新座头市物语 笠间の血祭り 1973.04.21 安田公义,服部佳子
26.座头市 1989.02.04 胜新太郎,胜新太郎 中村努 市山达巳
座头市物语
作为《座头市》系列的最初之作,《座头市物语》并没有想象中的那么用力,单从内容上看,它更像一个系列的结束而不是开篇。1966年《座头市物语》的公映成功,撇开时代因素不谈,现在看来包含了极大的偶然性。尽管因为《不知火检校》中胜新太郎所饰演盲人角色的成功,盲人作为电影主角也可能大受欢迎,但把子母泽宽的原作搬上大银幕,还是包含了极大的风险。没有人知道后来会发生什么,三隅研次似乎也没有作出长期抗战的准备,这促使他必须仅在这部电影内就完成这个血肉丰满的人物,而不是尽可能多的制造感官刺激和留下悬而未决的难题。
一开始,《座头市物语》就有了迥异于时代剧传统的趣味。塑造座头市这一人物的重心,必须让他变得矛盾而暧昧。除了外型的差异以外,三隅研次将给予他更多的、与时代剧中正统英雄不同的形象,手法上也将脱离传统的起承转合,不追求情节的波谲云诡,而是追求可控制的节奏和速度,强调细节的表现力,同时尽可能赋予人物较浓的悲壮色调。这一切,在未知的前提下,都将成为后来系列剧的通用准则。
在《座头市物语》中,对于座头市这一人物形象的刻画,三隅研次是先抑后扬。首先正面刻画他的无赖形象,然后侧面交待他大剑客的身份,以此制造落差为高潮动作戏作铺垫,同时也制造适当的疑惑以调动观众。在结构上,以帮派争斗为主线,再在其中加入座头市与剑道高手平手之间的友情、与女人小玉之间的爱情以及田太的杀妻事件。这种看似散漫零乱的叙事,为故事带来一层舒缓的节奏,使三隅研次得以有充足的时间和空间来深入人物,用情感动力来推动故事情节的发展,有效加强了故事的感染力,为电影整体蒙上一层悲剧气息,与结局时座头市弃刀而去的情节相呼应。这缕悲情的末世气息,对代表武士荣耀但穷途末路的平手这一人物的细致刻画,以及其中包含的弃旧与欲舍还留的复杂情绪,极有可能就是其当年在广受欢迎的原因之一。
基于上述因素,三隅研次在片中并没有安排太多的剑斗场面,座头市拔刀的场面仅仅在片中出现三次:一次是表演刀法;一次是杀掉两个前来杀他的黑帮份子;一次是与惺惺相惜的平手之间的决斗。两场打斗戏不长,三隅研次导起来也是干净利落,其中大决斗一场的调度最见心思。首先用一个接近360度的摇摄交待局势,然后将决斗的两人放入一个看似开放实则封闭、同时能有效突出的空间内;再根据决斗时的情势变化,三隅研次将其划分为三个段落,分别用一个远景、中远景、中近景来对应呈现交手的第一回合、第二回合以及平手死后场内的情形,中间以人物反应的特写镜头作分割(包含数量变化)。这种渐进的、具有动感的镜别强化了剑斗场景的紧张氛围,将我们带入故事内部也带入人物内心,在场景内营造出一个由弱到强的情感高潮。
由于《座头市物语》的大受欢迎,续集的拍摄成为可能,可以预见的是,三隅研次的继任者们必然会加强娱乐性,而且愈往后,愈是会在这一道路上求新求变。在这其中,剑斗与幽默,将成为故事着力表现的重要元素。因此不论是作为《座头市》系列的开篇之作,还是作为时代剧泰斗的三隅研次众多作品之一,《座头市物语》始终具有自己独特的韵味。在商业与艺术泾渭分明的今天,这一点愈发弥足珍贵。
续座头市物语
在《续座头市物语》中,导演由上一集的三隅研次换成了森一生。按照通常的做法,在前集获得成功以后,续集会原班人马上阵,这个换人必然包含了许多缘由。在我看来,首先当年导演地位并不是那么的“作者”,对于一部作品成败的影响,在掌控大局的人的认知中也没有去到关乎成败的地步;其次在流水线作业的情况下,大制片厂每年都有许多作品投入制作,旗下的导演常常会有分身乏术的现象,这个时候自然会挑选适当的人选递补上来。
将森一生作为三隅研次的替代者,是一个颇为合理的决定,正是在森一生导演的《不知火检校》中,胜新太郎获得了他演员生涯中最大的转机。得益于这个契机,他找到了自己介于实力派与偶像派之间的定位,从此步入了全新的天地。在幕后阵容里,还有一个值得留意的名字,助导井上昭,日后他导演了《座头市二段斩り》。
在这两部电影里,故事具有一定的延续性,除了座头市以外,部分次要人物也得到了延续,但整体上的结构变化极大。《续座头市物语》把座头市和以完户为代表的帮派之间的矛盾作为主线,这种建构相对前一部中两个帮派之间的斗争而言是一个极大的改变,他的对立面不再是一个人,而是包括了不同阶层不同目的的群体。它改变了座头市作为参与者的被动性,而是把其放置到了一个相对主动的位置之上,这个改变突出了座头市的英雄形象,商业的味道更加明显。副线则包括了座头市和四郎之间的恩怨、座头市和小玉之间的重逢。
两部电影同中存异,但经过不同导演的梳理,出来的感觉大相径庭。在前作里,三隅研次更强调两个男人之间的友谊;到了森一生手中,这个元素被削弱了,尽管还存在同样的人物关系,相对突出的却是两个男人类似的命运,被一件小事改变了的悲情人生。这其中通过两个男人与一个妓女之间的三角关系,巧妙交待两人过往的恩恩怨怨,是妙笔所在。单就这些改变了的东西而言,难以区分两部作品的优劣,但三隅研次在《座头市物语》中体现的个人风格无疑更加浓郁一些。
《续座头市物语》中座头市拔刀的场次增加到了六场,相对《座头市物语》几乎倍增。这种设置破坏了了三隅研次精心构建出来的平衡感,娱乐性更强,但整体的冲击力却不一定具备同样的效果。在高潮的剑斗场景里,森一生的调度明显逊色不少。在座头市与四郎的对决一场里,在交待完所涉及的人物后,先用近景、特写表现两人的对峙,然后用大远景交待空间关系;在打斗上,同样分成数个段落,分别用大远景、中景、近景来表现;途中插入场内人物的反应来加强紧张气氛以及情感动力,营造出一个开放的叙事空间,同时做出分隔。在决斗末尾,又引入新的情节,将高潮延续到下一幕中,是一个相对成功的处理。与三隅研次的表现手法比较,戏剧性略为相当,表现力尤其是情感层次上的表现力则弱了许多。在时代剧里,动作戏里的情感处理、对空间的利用、与整体的呼应等等,我觉得是区分作者与非作者、大师与匠人重要的准绳。
比较两部作品,《续座头市物语》中对座头市与两个女人之间的情感戏处理得更加合理一些,这也是森一生相对三隅研次的成功之处。《座头市物语》中座头市与小玉之间的感情铺垫的略为不足,这与《座头市物语》中的情节副线更多也不无关系。
新座头市物语
这是座头市系列的第一部彩色电影,执导这一具有历史性意义作品的幸运儿是田中德三。在看过的资料中,有提到他作为沟口健二弟子的身份。在风格独异的座头市系列中,强调这一背景,无疑有些舍近求远的感觉。先不论他的这一身份是否能够帮助他执导出一集出色的《座头市》,在片场制度健全而呆板的人才培养体系里,师徒关系不存在任何实际的意义,个人风格的形成具有极大的偶然性;田中德三不仅担任过沟口健二的副导,同样也担任过黑泽明的副导。在《新座头市物语》中,田中德三的首要任务是延续并完善座头市风格,而不是间接将它与大师们扯上关系。
切断藕断丝连的脐带,再来看田中德三的《新座头市物语》,它无疑是一部相当出色的电影。这个出色,甚至超出了座头市系列的范畴。与前两部比较,田中德三在片中运用了许多新的技巧,最突出的是大量的移动镜头,移动镜头内部还同时包括了移动与静止,这种动与静的交替使用,结合剪辑,加强了影片的动感和节奏;另一个令人印象深刻的是较多的使用了主观视点,尤其是在座头市身上,这一点极具抒情意味。同时田中德三在构图、调度上也更花心思。通过这些手法使一些有意被强调的细节,在不占用叙事时间的前提下构成了一个坚实的时代背景,在时代剧之外还营造出强烈的现实主义色彩。这里面值得一提的场景是开篇的交待性段落,镜头、调度、剪辑运用得相当出色,细腻的时代风情得以悄无声息的进入。在这个段落里,音乐的表现力也相当出彩,为影片的基调作出适当的铺垫。在《新座头市物语》中,虽然对配乐的使用跟前两作类似,但选择的时机与场景却恰到好处,使得表现力倍增,这种突出的运用在座头市系列中还是头一次。
在叙事上,编导同样安排了多条线索,首先进入故事的是前来寻仇的完户,这延续了前作留下的一些情节,然后是奥村筹钱一段,与之平行发展的是座头市与弥生的爱情。与前两作比较,这三条线的相互结合更加紧密一些,而且相互间的影响更大,这也使得故事结局时高潮不断,完全具备了独立成趣的效果。《新座头市物语》的剧本同样由犬冢稔主笔,但加入了梅林贵久夫,这个组合阵容的表现明显强过了前两部中犬冢稔的单打独斗。这是长处,同样的也是短处。座头市系列有个明显但是独特的趣味:浅淡,它表达的感觉是哀而不伤的,它赖以存在的结构是开放的。在《新座头市物语》,多条线索的紧密结合,导致了一个主调的纯悲剧结局,这就是座头市与弥生没有结果的爱情。这个结果看似开放,实则封闭了座头市的情感。这种处理使《新座头市物语》具备了独立成趣的基础,但却严重影响了座头市系列的后续故事。首先,同样的情节再次发生时,它的悲剧力量就不强烈了,而且不够可信;其次,它在悲剧的方向上跳跃性的去到一个层次,封闭了后来故事表达同样情感的可能性,被迫更多的选择在喜剧的方向上发展。作为座头市系列的承前启后之作,太多的顾虑自身却忽略了后来者的需要,算是一个不大不小的败笔。座头市与弥生的这一段情感,极为动人,这与田中德三的叙述手法有极大关系,但同时也得益于故事设定,即幕后故事的留白。在叙述上,用于这段情节的叙事时间与前两部相近,当有铺垫不足的情况出现时,幕后故事自行的弥补上这一漏洞。
在人物形象上,这部影片加强了对座头市性格的刻画,尤其是通过一些别有趣味的小细节。例如座头市在弥生面前喝酒时换大杯、毫无顾忌的贪婪喝相;在武士拒绝为按摩付费时,他把水倒在他们的床褥上表现出来的小心眼,这与盲人的身份是相符的;另一面还有他弹琴、吹笛等感性的细节,这些细节应该与胜新太郎对人物长期的揣摩有关。次要人物的刻画同样有精彩之处,座头市在表演刀术后,弥十郎扔下几个钱币的举动就完全暴露了他内心深处对座头市的轻蔑,同时为他反对弥生与座头市的爱情埋下伏笔。
在这些情节内,隐藏着一个颇具价值的主题。如果说田中德三真的从沟口健二身上继承了一些东西,我觉得这个地方才真的可资一谈,这就是对大时代背景下女人悲惨命运的刻画。弥生的悲惨爱情是其中之一,她出身浪人家庭,在没有感情基础的前提下被哥哥安排嫁给富户,门户观念已经初具讽刺意味;当她决定嫁给座头市,同样又被弥十郎以门户不当所阻时,对残旧观念的嘲讽表露无遗。旅店老板娘的命运是另外之一,她深爱弥十郎,为他背叛了丈夫,甚至遭到丈夫的追打,但弥十郎却对她毫无情感,始乱终弃,视其为泄欲工具;当弥十郎被完户讥讽为小偷,他恼羞成怒中杀了完户;当他再次回到旅店时,老板娘在他面前狠狠地把门关上,这代表了某种程度的女人觉醒和更深一层的错爱。这两个追求真爱却得不到结果的女人,是那个男权至上时代里女人悲剧的缩影,具有极强的代表性。尤其值得称道的是这种刻画并非正面进行,而是不经意间的寥寥数笔,就已经形神兼备。
动作戏方面,座头市拔刀的场景共有六次,其中一次为表演,一次是挥刀抒发内心的郁闷。剑斗场景有四次,前两次都是与寻仇者的厮杀;后两次则是连续发生的,先是一人挑战多人,而后面对本集中的最强对手弥十郎。在一对多的打斗中,田中德三的表现手法与前两部大相径庭,这段打斗分成了四节,前三节以近景为主,后一节则以中景为主。在前三节中,与前两部单一镜头的固定景别比较,田中德三以手提摄影加强了其中的运动。场景中除了人物的运动外,还结合了摄影机的运动,并以剪辑将两者结合。其中摄影机的运动又包括了纵向、横向、弧形等多种形式,以此突出空间感、场内的气氛以及人物的内心活动。这些小节以交叉叙事的平行情节分隔,在平行情节里又以静与动的对比来构建节奏,与打斗情节里的节奏相呼应,有效融为一体,同时也将平行情节合拢在一起。虽然精炼程度不及前两作,但视觉效果却远远胜出。
由这部作品开始,座头市的拔刀场景基本形成了套路,其中必不可少的部分包括了一次刀术表演,一次与追杀者的小规模剑斗,一次以一敌多的大规模剑斗,一次与最强敌人的颠峰对决。同时可以肯定的,从《新座头市物语》开始,后来者对剑斗场景尤其是大规模剑斗场景的指导,将脱离前两部黑白电影的简单趣味,而是以田中德三的这一场为标准来进行设计。
小结:《新座头市物语》是一部接近杰作的时代剧,作为座头市系列之一,它的旨趣完全超越了座头市系列的平均水准,具备了一定的思想性。但如果用时代剧杰作的标准来衡量它,它的形式又显单薄。表面上看是“座头市的形式” 所带来的限制,实际上也是田中德三自身的局限。他在这部电影里所表现的华丽感,其实远远及不上三隅研次简洁洗练所表现出来的庄重。后者那种严谨的形式感,不会因为时间而褪色。
座头市凶状旅
受益于《新座头市物语》的成功,田中德三得到连续执导座头市电影的机会。这在座头市全系列26部中只发生过两次,连执导次数最多的三隅研次和安田公义都没有得到过这种机会。这种导演的连续性带来的好处显而易见,风格得到延续,在彩色电影的时代里为整个系列奠下可沿用的基调。但坏处也显而易见,个人风格将影响座头市风格的走向;同时执导出一部失败之作的可能性更高,尤其是在前作相当成功的基础上,因为观众很容易将两者拿来对比。在这种情况之下,执导《座头市凶状旅》的田中德三需要表现出更令人信服的实力,才能令观众得到超越《新座头市物语》留下的观感。
这是个难以达成的任务,首先是因为他在《新座头市物语》中的表现令人惊讶,能力已经得到最大限度的展示;其次,前面我们已经提过,《新座头市物语》的纯悲剧性结局,超出座头市系列的旨趣,为后来者设下了陷阱,而田中德三自己首当其冲的踏了进去。从后者的角度看,《座头市凶状旅》存在两种不同的可能性结论,其一可以认为田中德三完成了对前作的悲情超越,同时也可以认为他的努力失败了。
剧作方面,前三集中的主要剧作者犬冢稔退居到了幕后的幕后,担当起“润色”的角色,编剧由星川清司担纲。这一改变对应的是故事情节的改变,《座头市凶状旅》讲述的故事主线又回到了黑帮之间地位的争斗,座头市再次回归参与者角色。在故事副线方面,对应这一调整,先崎与阿信的爱情故事也成为情感方面的主线,座头市与小玉的重逢退居到二线。我个人认为这一改变不是很成功,它首先是因应《新座头市物语》结局作出的某种妥协。尽管这段感情的刻画本身是成功的,但对于座头市的形象刻画并无太多助益,它本身有独立成趣的效果,用于对比效果不是很突出。
受限于《座头市凶状旅》的脚本,田中德三无法在其中找到新的突破口,将之上升到思辨的高度,他必须重新回到“座头市趣味”上来,在受限制的空间内追求新的内容。撇开形而上的艺术追求,回到时代剧的路途之上,这无益有助于座头市系列的生命力。在这一点上,《座头市凶状旅》也并非孱弱不堪,其中依然存在许多的亮点。在本片中,编导为座头市塑造了一个新的对手,这个对手不再具有复杂的多重身份,而是单纯的作为对手存在。这种处理加强了时代剧的趣味,两个高手之间的对决成为一个精彩的看点。对于以剑斗为卖点的时代剧,这种平衡的人物设置极为重要,它扭转了前三集中主要人物纠缠而复杂的关系,将对决简化为正与邪的对决,避免了因为纠葛关系所产生的低调结局,将悲剧性集中到了座头市的生活(尤其是爱情部分)之中,他无需杀掉朋友与亲人,生活本身就已经具备了足够的悲剧意味。这为后来者提供了足够大的空间,来加强电影中的剑斗场面与喜剧趣味。
当 “座头市趣味”重新成为故事重心,细节就再次具有了亲民的味道,幽默场景俯拾皆是。但这些东西显然不是田中德三所长,当它好看的同时也产生单薄的感觉。只有到了适合他的部分,他的意趣才得以一露峥嵘。在故事最后,当阿信与先崎送座头市上路,他在窄路之上跳起了欢快的舞蹈,似乎为成就一对情人而兴味盎然。镜头一转,喜悦的脸色立刻变为悲呛,然后强颜欢笑,又再悲,却还是手舞足蹈……短短一节,情绪数变,内心世界暴露无遗,堪为写情妙笔。
造成座头市这种心理状态的情节,正是朝仓临死前告诉他的:布局引座头市入觳的,正是他的旧情人小玉,那个他认为没有被时间改变的人。这是个有力的细节,意义却有两个截然不同的结果:正是在前面提过的,对前作悲情的超越,同时也是失败的超越。这个细节包含了两种可能,可以为真也可以为假,为假就跟结局那个意味深长的场景发生了冲突,为真自然就是合理的,它跟结局构成了呼应关系。这个细节在此加深了人物的复杂性,本身也是含混的。跟前三集比较来看,它们讲的是悲情,但情是真,《座头市凶状旅》讲的则是情之假,论残酷性它超过了前作,自然也就是更深的悲剧。但为何又称其为失败的超越呢?因为前三集讲情之悲,情真意切,《凶状旅》讲情之悲,则建立在人性的另一面之上,它破坏了座头市系列的那种单纯的“哀而不伤”,就像打开了一个潘多拉盒子,从这里开始,人心的两面、为达目的不择手段等等不受规则所限制的事情都在后续之作里出现。含混的处理影响尤其长远,如果是清晰的,无论真假,编导还可以在下一个故事扭转观众的认知;但含混却产生不确定的效果,一旦后续故事里有类似的情节出现,观众始终会存疑。
这种巨变的背后,其实包含着一种无奈的叹谓,正是一个时代正在开始消逝的意象。曾经单纯的美好正在变得复杂,曾经坚守的东西正在被侵蚀,就象刀的时代向枪的时代过渡、英雄的时代向小人的时代过渡一样。如果它不是指座头市存在的时代,就代表了创作者们身处的时代,某种意义上还包括了发现者身处的时代。其中究竟是何所指,无从考稽。这种个人的东西,改变了故事的走向。从这里开始,座头市单纯的、美好的、在《座头市物语》等故事中还可歌可咏的世界,将不复存在。开篇中的毒太阳、干涸的田地,尾声中的落寞舞蹈,也许正是这种转变里自觉与不自觉的体现。
在本片中,座头市拔刀的场次减少为四次,基本上就是剑斗模式中包含的全部,由于后两场打斗同时包括了与最大敌人、最多对手的内容,实际上也算是与前作持平了。除了杀掉为赏金而来的小角色外,其他三次都同时包括了座头市最大对手朝仓的拔刀,这是一种极为均衡的设计。剑术表演中朝仓落了下风;在第一次混战中朝仓再度出手,各自受伤算是平手;在最后的决斗中,他斩断座头市的杖刀占了上风,最后却死于座头市的刀中刀之下。这个细节也是具有颠覆性意义的设置之一,同样的设置还包括了枪的进入。这几场剑斗并没有比《新座头市物语》中更精妙的调度,唯一印象深刻的地方在于整场打斗包含进了不同的场地:封闭的房内、空旷的沙地以及水塘,这种高潮段落的时空处理显然会极大的影响后来者的设计。
比较起《新座头市物语》,田中德三在本片中的表现并未能延续同样的精彩,但这应该才是他真正实力的反映。除开导演的因素,《新座头市物语》的成功令一半应该归功于犬冢稔与梅林贵久夫的剧本。而《凶状旅》的可贵之处在于,它把前作中收窄了的叙事空间,又再度拓宽了,虽然其中包含了许多的破坏。这两部作品中参差不一的表现,包含了许多偶然与必然的联系,田中德三一个人就承担了其中的因果。所以缘分也就就此终止,直到三年后他才得到机会执导座头市系列的第十三集《座头市の歌が闻える》(《听见座头市之歌》)。
座头市喧哗旅
女为悦己者容。这是一个老套的细节,却是恋爱中的女人内心世界的真实外现。当美津在桌子边对着镜子整理仪容,等待座头市归来时,那一刻就像鲜花绽放一样的美妙。即使对方是个瞎子,根本看不见她细心整理过的发髻,但那份娇羞与温柔里的微妙少女心事,却在银幕上可感可触。或许就是这个细节的存在,把美津与座头市的这一段感情映衬得鲜活动人。
在《新座头市物语》的悲情之后,我以为叙述座头市的感情对后来者而言将是件困难的事情,现在看来只是杞人忧天。安田公义用了最简单的做法,那就是重新回到起点,重构一段感情生活的点点滴滴,用细腻的铺陈让人心无旁骛,以至于忘掉过往的种种不愉快。捎带着,安田公义也让《座头市喧哗旅》重新回到正确的轨道之上:哀而不伤,淡而有味。这一段情感,是迄今为止座头市系列中刻画得最美好的一段情感,其中包含了起点、磨难、波折、理解以及孤独旅程中不自觉的依恋种种状态,它是动人的,也是合理的。
得益于犬冢稔的回归,座头市也回到一贯的趣味之上,得以在既定的方向之上更加深入。最明显的变化,在杖刀之外,座头市还多了一个烟斗。这种设置进一步降低了他身上的严肃性,身份也更加的平民化。对应这种微妙的改变,他的性格也有了新的发展,安田公义将通过种种细节塑造更复杂的、反差更大的人物形象。对于系列剧而言,这样的改变无疑是有益而有趣的。
在这种趋向之上,座头市作为一个男人,好色但乐而不淫的一面被不无戏谑的放置到了故事中。当他把受骗的美津从黑帮中解救出来,他愤怒的指责她不信任自己;吃尽苦头的美津完全软化,扑进他怀中寻求安慰,座头市顺手或者根本就是趁人之危的抚摸起她的脸来……在这段感情在走向终点的时候,座头市理智的选择了离开,却又偷偷地拿走美津丢失的镜子,作为寂寞旅途中快乐的回忆……在安田公义巧妙的叙述之中,这种典型的座头市悲情完全消除了其中的悲调,而是有了“送人玫瑰,手有余香”的回味。
当故事内部的情感基调被确定,整体自然就偏离了正剧的方向。在故事开篇,安田公义用一个较长的镜头讲述座头市如何改变路向开始,近似默剧的效果就产生了一丝喜剧的味道。在故事进程之中,当座头市的形象被复杂化以后,为故事结局的选择带来极大空间。当美津被黑帮掳获,对方逼迫座头市临阵倒戈时,他好整以暇的周旋在两个黑帮之间,这不但无损他的英雄形象,反而在其中营造出一丝荒谬感,与故事整体的喜剧风格形成呼应,同时将座头市这一人物更进一步的个性化。
在结构上,虽然故事也包括了两个黑帮争斗的情节线,但重要性在座头市与美津的情感线之后,处于从属地位,表层的情节是以护送美津到江户的任务为主线。这个受托付接受任务而被卷入到漩涡中的情节,将在后来的故事中成为必备情节之一。在剑斗场次方面,座头市拔刀的次数为六次,其中最后的大混战包括了几个不同的段落,最大的改变是去掉了最大对手的设置。在这其中,故事开篇就安排了座头市拔刀的场面,使时代剧的剑斗卖点更加突出,肯定会为后来者们大肆应用。
在剑斗场景的调度方面,安田公义最突出的是加入了对场景中存在的器物的利用,同时也更强调剑斗的气氛,这个主要通过静与动的对比完成。在手法上,最令人印象深刻的是座头市在河滩边杀掉三个前来偷袭的武士。这场戏首先处理成一个温馨的场面,然后通过人物的反应将气氛逆变,再通过蜻蜓的起落确立剑斗的起止时间,通过一瞬间对比其中惊心动魄的生死逆转,简单又强而有力。最后的街巷大混战、座头市周旋于两个黑帮之间的场景,安田公义应该从黑泽明的《用心棒》中得到很多启示。
对比前作,《座头市喧哗旅》在整个座头市系列中具有极其重要的地位,首先它恢复了人性的美好,将座头市系列的价值取向重新推上正轨,为后来者留下了可供沿袭、又可自由发挥的巨大空间;其次它加强了座头市电影的时代剧特征,这远比加强座头市电影的思想性更具有实际价值。
——2009-05-14 15:26:54,4444上传
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