[这个贴子最后由常忘了我是谁在 2007/10/27 03:01am 第 8 次编辑]
信件:
Sat, 27 Oct 2007 00:59:11 +0800 (CST)
前田:黄牛田电影座谈投稿日 本纪录片杂志
可以再写一点东西,现在脑子不动。
附:WORD文件
前田:今日は何日になります?
趙大勇:9月6日。
前田:では、9月6日朱日乾宅にてインタビューを行います。まず、日本の皆さんに各自自己紹介をお願いします。
黄文海:中国でドキュメンタリーを取っている者です。
朱日乾:中国でドキュメンタリーを見ているものとでもいいましょうか。日本の皆さんに向けてあなたがもっと多くの中国独立映画、特にドキュメンタリーを紹介して欲しいです。私は現在、栗憲庭電影基金の仕事に従事しており、もう一方では現象工作室にて映画のプロデュースと発売を行っています。栗憲庭電影基金というのは主に独立映画の資料収集及び整理、それといくつかの独立映画の資金援助を行っている機構です。
趙大勇:私は趙大勇と申します。真実電影(シネマヴェリテ)を撮っています。いつもドキュメンタリーといっていたらいけない、私たちはシネマヴェリテに習わなければいけない!
前田:真実電影ですね・・・。
趙大勇:私たちは真実電影を撮っている者で、ドキュメンタリーを撮っている者ではない!
朱日乾:(大勇は)ドキュメンタリーという言葉が嫌いだから。
趙大勇:そうだ!その呼び方がきらいなんだ、ドキュメンタリー映画が正しい!
黄文海:私たちは映画を撮っている。
趙大勇:ドキュメンタリーというのはテレビ局が使っている呼び方で、私たちは映画を撮っている。
前田:分かりました。
趙大勇:インディペンデント監督です。
前田:今日は主に中国ドキュメンタリー映画の最近の動向、主に黄牛田電影について伺いたいとおもいます。黄牛田電影とはなんなのか?黄牛田黒社会のボスから日本の皆様に向けて紹介していただきましょう。
朱日乾:黄牛田の顔役です(笑)当時、シンセンのドキュメンタリー監督、劉高明がイベントを企画して、それに参加した何人かの監督が今の黄牛田映画グループのメンバーになっています。黄文海、趙大勇、王我、徐辛、それに胡新宇これらの監督の作品をシンセンで上映しました。私は付き添い人としてこの上映会に参加しました。その後これら作家が互いに集まり何か活動をしようということになりました。実際には回顧録など作るとしたら、みんなの観点が一致していることに気がつきました。様々な問題の上でも共通の理解がある、だから彼らはお互いに集まってもっと緊密な協力、または創作方面での互いの支持や討論などでグループを作ったほうがいいのではないかと考えました。ちょうど私の実家に遊びに行った時、そこは黄牛田村と呼びますが、みんなその名前を気に入ってこの映画グループの名を黄牛田電影にしました。
前田:その日はたしか・・・。
朱日乾:八月二十日です。
前田:その日に正式に成立したということになりますね。
黄文海:『老男人party』にはドキュメンタリー監督のZhou Haoも参加していましたが結局考え方の不一致によって最終的には一緒に活動するということにはなりませんでした。ですからこのグループは同じ志を持ったもの同士グループと言えるでしょう。実は私たちも最初は映画グループを作ろうという考えはありませんでした。朱日乾は私のプロデューサーで何年も共に仕事をしてきました。それから私を含めた大勇、徐辛、胡新宇はAi Weiweiの『童話』のスタッフとして参加していてポスプロで一緒でした。その頃、朱日乾と王我は頻繁に来ていてみんなでよく話していました。その内容はとても有意義なものでした。思いがけなくも私たち中年男の考えは似ていて、それに直面している苦境も同じようなものでした。しかし、シンセンに行く前までは誰も映画グループを作るという話を知りませんでした。
前田:誰がヌーヴェルヴァーグの概念を持ち出したのですか?大勇ですか?
朱日乾:当時は私もよく分かりませんでした。大勇と王我の話から始まって、それで・・・。
趙大勇:実際にはこういうことです。私が『童話』ポスプロの仕事の最終日、北京を離れるときに王我が見送りをしてくれて、一緒にご飯を食べに行きました。その時に話し合った内容が中国映画のこと、その方向性、それに中国映画の制作者の意識の問題を分析していたところヌーヴェルヴァーグの問題だと思いました。新しい思想についての問題です。今の中国の映画作家には優秀な人が多くいます。彼らが早期に制作したインディペンデント作品は初歩的な段階に置かれていると思います。技術上や創作上に係わらず思想的にも或る種の探求段階にある。しかし、これらの作家は創作面では成熟してきているにも係わらず自分たちの映画の思想体系を成立させていない。このような状況において更に中国の映画制度下では正常なプロセスを経て映画館で作品がかかることは困難だし、自分でそれを普及させることも難しい。もっと重要なのは自分たちの思想体系を作り上げることです。ヌーヴェルヴァーグというけれどそれは別の人のもので、私たちのものはヌーヴェルヴァーグとはいわず、何というかは分からないが、少なくとも自分を確認できる中国人としての私たちが集まって出来る考え方なのだろう。ちょうど『老男人party』でみんなが一緒に集まったので、ではやろうじゃないかということになりこのグループが出来たのです。グループがあれば目前のいくつかの苦境を解決できる。この苦境のひとつに配給の問題があります。私たちは作品を撮り終えたらどのような路を辿っていくのか。受動的に映画祭に応募して賞を獲っていくか、それとも自発的に新たな配給の手段を模索しそれを普及させるか。なぜなら中国では正規にDVDを販売することが不可能なのです。ただ自分で方法を考えるほかないのです。このように私たちが集まって共同で問題を解決していく、では誰と集まるのか?私たちは同じ志を持ったもの同士です。それぞれの作品はスタイルを持っている、それに思想上成熟している、これは非常に重要なことです。こうやって私たちは集まり黄牛田電影を組織しました。共に模範を樹立させようというわけです。少なくとも私たちは勇気を持って立ち上がることが出来る!私たちはことをなすことが出来る!私たちがどんなに凄くて先鋒であるかとなどという感覚で自分を標榜することはありません。
黄文海:実のところやはり我々は映画において理想を抱いています。DVを含む新たな媒体の出現以降私たちはインターネット、映画データベース、大量の海賊版DVDで映画の知識の探求を行ってきたのかも知れません。この点においてもしかしたら私たちは第六世代、第五世代よりも多くの映画の知識を得ることが出来たのかも知れません。経済上の独立、精神上の独立も含まれます。
前田:第五代、第六代というのは自分に関係の無いものとして見受けられますが・・・。
朱日乾:世代論というのはくだらないもので、それが代表するものといったら伝承性です。もしも第五代やら第何代やらを伝承していくとしたらそれはめちゃくちゃな考えです。
前田:そうです。なぜなら誰がこのような考え価値観を持っているのか、その出所は非常に曖昧蒙古なものです。もしも年齢から世代論というのを判断しているとしたらそれは可笑しな考え方です。
黄文海:時代ごとに異なる背景があるのでは・・・。
前田:しかし、安易に第五代やら第六代という曖昧な概念でひとつの時代を概括するというのは中国映画がよく陥る誤った固執だとおもう。
趙大勇:私は第何代だとか云ったものは単純にメディアの扇情に使っているもので、かれらはそれを探すのが仕事です。メディアの人間というのは何も分かっておらず、大抵が馬鹿、だからこんな第五代やら第六代という呼び方を持ち上げてきた。第六代と第五代の間に創作上どのような関係があるんだ?
黄文海:しかし、どの代にも特色があって共通性もやはりある。
朱日乾:その共同性といったら何年に卒業したかを指しているだけで、創作上のというわけではない。この考え方はこじつけだ。
前田:例えば私が出てきたら第七代になるのでしょうか?私には関係ありませんね。
黄文海:いや、今そのことを持ち出してきても意味が無い。映画の時代ということであって・・・。
前田:どのみち他人が押し付けた定義なんて自分には関係ありません。
趙大勇:お前は第七代だよ。(前田:違います)じゃあ第八代だ。
前田:第零代!黄牛田!
趙大勇:俺たちは何も代表していない(笑)
前田:その通り!黄牛田の精神は何も代表していないことだと思う。
趙大勇:実は黄牛田にはひとつ大きな共通項というのがあって、ここに集まったものの中で黄文海を除いたみんなは電影学院に関係していないし映画を勉強したわけでもない。
前田:そうそう(笑)
黄文海:一年進修しただけでまるで俺だけまともな職業になっちまったみたいじゃないか(笑)俺だけ唯一のプロフェッショナルって事だな(笑)
趙大勇:絶対に経歴の中から外せ!
黄文海:(笑)
趙大勇:お前の恥辱だ!
前田:大勇は以前現代アートをやっていましたね。それにCMを撮ってましたね。
そうです。
趙大勇:黄文海よりもプロフェッショナルということだ。
前田:王我と劉高明はデザインをやっていて、胡新宇はジャ・ジャンクーの作品に参加したことがあると聞きましたが?
朱日乾:主演男優の候補だったのですが最終的には・・・。
前田:初めて知りました。
趙大勇:『プラットフォーム』だよ。ジャ・ジャンクーの映画にいつも出演しているあの女の子ジャオ・タオ。あれは胡新宇の同僚であいつがジャ・ジャンクーに紹介したんだ。
朱日乾:だからかなりの打撃を受けた。
趙大勇:それからというもの胡新宇の映画を撮るという欲望に影響を与えた。
前田:(笑)
趙大勇:その後あいつは飛行機に乗って広東にいきおんぼろDVを買って帰ってから撮り始めた。それでフィクションを撮って失敗に終わった。どうやって映画撮影を管理するかも分からずに撮り始めたから、意気込みに任せてやっていたら駄目だ。
前田:その後ドキュメンタリーを撮り始めたのですね。
趙大勇:その作品で美術をやっていたのがラオスーで、仕事を退職になったばかりで胡新宇の家に住んでいた。それでラオスーを撮っていて出来たのが『男人』だよ。
前田:黄文海は以前テレビ局にいましたね。
黄文海:そうです。
前田:何年間いましたか?
黄文海:四年間です。
前田:辞めてから電影学院に入ったのですか?
黄文海:その前に電影学院にいました。
趙大勇:先に電影学院に入ってその後テレビ局に入ったんだよ。電影学院に感謝するべきだな。だから経歴からも電影学院を外せない。
黄文海:あの頃の電影学院は今の電影学院よりもよかったと思います。私たちが招いた先生は一番良い先生でした。
前田:周伝基ですか?
黄文海:授業が一番良かった頃です。一年間に6000元の学費でした。
趙大勇:そうだ、言っておこう、俺たちは映画を愛しているこれが前提だ。
前田:映画狂ですね。
趙大勇:そうだよ、それが好きなんだ。はっきりいうと98年まで映画を撮るという欲望がなかった。広告を撮っていたし、ドキュメンタリー、シネマヴェリテなんて事は考えてなかった。あの頃は一心に現代アートをやっていて映画を作るということは念頭に無かった。だからあなたたちは先輩だ。
黄文海:(笑)
趙大勇:アメリカから戻ってきた頃残っていたのは230ドルだけだった。帰ってきたはいいが何をしたらいいのやら分からずじまい。既にアメリカの生活に慣れていて、国内に戻ったら何をやっても馴染まない、そういう心理状態だった。なんでなんだとおもったら、長い間離れていたので見知らぬ感じがしたんだ。何をしていいか分からなかったし、お金も無かった、何でもやったし最後にはまた広告を撮っていて結果お金を稼いでいた。その頃ドキュメンタリーが面白いと思い始め、絵よりも自分に向いていると考え始めた。あの頃に撮ったドキュメンタリーは失敗して結局40万元の損失を出した後また現代アートの仕事に戻ったというわけだ。
前田:あの頃長髪でしたね。
趙大勇:あの頃は展覧会をやったり作品をつくったり・・・、でも映画をつくろうということはいつも考えていてしばらくそんな時期が続いていた。『南京路(street life)』 を完成させてからはやっぱり映像がいいと感慨に耽ったね。俺は誰か巨匠の作品をみてから映画を撮ろうと思ったわけではない。俺の意識はお前たちとは違う、俺は映画を見てそれを完全に創作の材料として見ているんだ。
黄文海:芸術家として携わっているわけね。
趙大勇:そうだよ!こういう切り口がお前たちと違うんだ。ちょうどAi Weiweiの『童話』彼に会って発見したことは沢山あった。息が合ったしみんなの考えも同じところに向かった。俺が現代アートから入るかフィクションか、それともドラマを撮るかは関係なくて結果お互いが同じ考えで集まったということだ。実際創作とは何かというとそこには共通性があるんだよ。それは何かといったら「人」のことだと思う。俺たちは思想を持った動物でそこには共通性がある。
黄文海:なぜ黄牛田が同じ志の集まりなのか。出身や背景はお互いに違ってデザインをやっていたり現代アートだったりCMを撮っていたり、自分に関していうと最初はテレビ局で仕事をしていて記者もやった、あるいはドキュメンタリー番組だったり・・・。それぞれ別の分野で自分の仕事をしているだけだったが、ある日突然朱日乾がインディペンデント映画祭を行ってからは一緒に集まるようになった。その回数が頻繁になるほどみんなの討論も多くなり今は共に共通のことを成し遂げるために一緒に集まっている。私の経歴は大勇のそれとは違う。もともと映画が好きだったし家にはビデオテープ、VCD、DVDそれにリージョンコード9のやつも、たぶん同じ映画でも何個かあるとおもう。昔から好きだったし当時は資料を集めるのが大変だった。アーカイブで働いている友達にご飯をおごってから『愛のコリーダ』を録画させてもらったよ。あれは黒白だったからずっと『愛のコリーダ』が黒白だと思ってたんだ。その後に出てきたDVDがカラーだったからそこで初めて『愛のコリーダ』がカラーだって知ったんだよ(笑)王我はデザイン出身で『outside』も『noise』もあれはもしかしたら他の背景の人も同じように私たちと違うかも知れないけどあの感覚というのは・・・彼はああいう風に世界を見ることが出来るんだよ。
趙大勇:彼の世界に対する見方はとても直接的で概念的であって、物語に頼って表現するということを必要としていない、この感覚は彼以外の私たちの誰もが持っていない。
前田:彼の映画は直接的で、僕らのように理論に拠ったものとは違う。僕たちは先に結果を考慮してしまうけど王我のあの感じというのはとても新鮮に写る。
黄文海:たぶん映画の既成概念とうものがそこにあるからだろう。
前田:まとめに入りたいと思います。
黄文海:黄牛田は今行動の段階に入っています。今はDVDを作ろうと思っています。現在最も肝心なのは我々の作品が流通していかないことです。
前田:黄牛田にはスローガンがありますね。ひとつは審査を受け付けないこと。
黄文海:作者は完全な編集権を有する。
前田:編集権に何がありますか?
黄文海:それに道徳上の要求。
前田:黄牛田というのは映画グループだと理解できます。それと、あの日私たちが互いに確かめ合ったことで黄牛田は態度表明であるということです。
朱日乾:少なくとも同じ考え志を持っているということです。黄牛田はグループではあるけれども、強い拘束性は持ちません。私たちが長い間一緒に居た結果お互いが似ていると発見したのです。二つの方面での活動があると思います。ひとつは創作、もうひとつは普及です。私は注意を集めるでもいいし押し広げる活動というのはとても重要なことだと思います。これらのメンバーは専門出身ではないけれど一種の伝えることの欲望があります。まちがいなく自分の多く理解されたいと願っていますし、私は普及活動を行いたい。
前田:私は黄牛田に中国ドキュメンタリーの変革を目撃したといえます。
趙大勇:映画、映画!
前田:ドキュメンタリー映画ですね。
黄文海:実際には黄牛田以前にも大分前になりますが、九十年代には北京に実践社、広東には縁影会といった映画グループがありました。映画愛好家のグループです。私たちは作家のグループで同じ問題を抱えています。ですからお互いの力を集めたいと思うのです。
朱日乾:ある種の事柄についてははっきりというべきだからいいますが、彼らには中国社会に対する批判的な見解があります。それは知識人としていったらいいでしょうか・・・、恐らくみんなが同意してくれないでしょうし、話が大きくなりますが、私はとても簡単な話だとおもう。中国社会は複雑で多くの問題を抱えているということです。
前田:それも一方にはあるでしょう。
朱日乾:これもみんながドキュメンタリー映画という方法を選択した事と関係があります。これは非常に重要な一点でこの社会から逃げられないということです。
前田:なぜなら中国には映画において断絶がある。
朱日乾:映画に限りません、社会全体に大きな問題があります。言論についてもそれが抑制されているし、政治体制についてもそれが集権的国家だということです。
前田:黄牛田というグループを組織していく上でこれからはどのような活動を行っていくのですか?前にDVDのBOXことに触れましたが。
朱日乾:BOXとまではいえませんがいろいろと方法を試しています。
黄文海:必ずいわなければならないことがあります。一人では孤独であるけれども、このように集まったり活動をしたりすればそれはお互いの励ましになるし助けにもなります。
趙大勇:一人の時は只の火の粉だけどそれが集まれば火になる。
黄文海:そう炎です!
趙大勇:そう、炎に変わる!散らばって火の粉になればその火が燃えるのも少しの間で最後は消えてしまう。この炎がどこまで光るかはやってみなければわからない。私たちはみんな30過ぎで、みんなが中国の一番複雑な段階を経験している。変化が一番大きい時期で感じたことや見たことを敏感に感じ取っていった。この年齢で敏感な問題にも成熟した考えを持つことができるようになった。だから自らの社会、自らの生活を分析していくべきだと思う。私たちが生活するこの時代、この生活状態にあってやらなきゃいけないことは自分を分析してこの社会を分析することだ。この体制化にあってそれを本当にやる人はいない。個人や集団という意識を捨てて、一種純粋な手段、映画の手段でこの社会を解剖分析する。これが社会的な責任感だとおもうが、どうだろう?
前田:そのように理解されているのですね。責任感ですね。
趙大勇:なぜなら目の前で起こるすべての出来事、それは自分の生活と離れて考えることはできない。
黄文海:少し話しが大きくなってしまうけど、私たちの年齢は問題を引き受けていくべきです。
趙大勇:そうだ。
黄文海:この社会に対して問題を引き受けていく、黄牛田は映画のグループで私たちの年齢はこの時代にあって引き受けていくべきです。この時代にあって・・・。
趙大勇:何かをしなきゃいけない。
黄文海:そうです。それは回避できることではないしやるべきことです。
趙大勇:戦争の時代にあって大衆が飢餓に苦しんでいればそれを引き受けていく、ただ時代が違うだけ。
前田:分かりました。
趙大勇:なぜならこの国をとても愛しているからです。自分の家を思うのと同じで、度が過ぎると批判しなきゃいけない。問題を分析して解決しなきゃいけない。
前田:例えば映画審査制度?
趙大勇:そうじゃありません。もっと多くの問題です。
朱日乾:審査制度というのは中国問題の中で現れた一つの問題に過ぎません。マクロの視点で見れば、それは映画製作、配給に対する障害で特に重要な問題だとはいえません。文化についても芸術についても多くの圧力と問題が存在します。社会については言うまでもありません。その複雑性を私たちが簡単に説明することは出来ません。みんな問題について考えるとともに責任感をもって臨んでいます。このようなことは一定期間生活して経験を積めばわかるでしょう。
前田:最後に黄牛田の代表にまとめてもらいたいと思います。
朱日乾:私は代表じゃありません。それぞれが代表だと思います。ひとりひとり別の理解がある。
前田:それが黄牛田だとおもいます。
朱日乾:そうです。それが重要です。
趙大勇:志は同じだが、やり方はそれぞれ違う。
朱日乾:そうです。それに最も重要なのはそれぞれが独立した判断と思考で共に行動することです。
前田:それが黄牛田です。
趙大勇:共通性はあるが違いもある。
前田:違いこそが価値だとおもいます。
趙大勇:そうだ、それぞれが主観を持ってまた、同時に共に解決するべく問題に向き合う。
前田:それに映画に対する愛ですね。
趙大勇:正直言うと、本当は映画を愛していないよ。
前田:(笑)
趙大勇:お前たちは映画を愛しているんだろうけど!
前田:最後になりますがその言葉で終わってしまいますよ。
趙大勇:俺は・・・、俺の生活を愛している。
前田:何と言いました?もう一度お願いします。
趙大勇:私は私の生活を愛している。
前田:OK、OK。これで終わります。この言葉はとてもいい。
黄文海:南方都市報の記者みたいだな。見出し付けるつもりだろ。拍手なんかしちゃって。
前田:これは自分の感想であって記者みたいに答えを導き出すためじゃありません。私はこの言葉が聞きたかったのです。「生活に対する愛」を締めの言葉にさせていただきます。
趙大勇:終着点を見つけやがったな。
聞き手 前田佳孝
黄牛田小组的聊天(中日文对照)
2007-10-27 02:38:03 常忘了我是谁
2007-10-27 02:39:53 常忘了我是谁
Sat, 27 Oct 2007 01:30:51 +0800 (CST)
回复:"胡新宇"
你这是让我学日文啊?
赶紧拍一下老朱怎么办独立电影节吧,拍完了赶紧剪,你就会发现有许多问题。别再来个《碎片》,裸体,浪漫,这样让业内人士看不起。这不是纪录片的性质和走向。纪录片的道路是殉道者苟且偷生的的一种生活方式。
回复:"胡新宇"
你这是让我学日文啊?
赶紧拍一下老朱怎么办独立电影节吧,拍完了赶紧剪,你就会发现有许多问题。别再来个《碎片》,裸体,浪漫,这样让业内人士看不起。这不是纪录片的性质和走向。纪录片的道路是殉道者苟且偷生的的一种生活方式。
2007-10-27 02:41:00 常忘了我是谁
Sat, 27 Oct 2007 01:30:51 +0800 (CST)
回复:"前田"
我在负责日本独立片。弄完做字幕可以去拍拍。另外我不管业内人士怎么看,我追求我的价值观。叙述可以开放点,那些正规的轨道现在已经无法成立。我要拍老朱的话不是去找叙述的素材。
回复:"前田"
我在负责日本独立片。弄完做字幕可以去拍拍。另外我不管业内人士怎么看,我追求我的价值观。叙述可以开放点,那些正规的轨道现在已经无法成立。我要拍老朱的话不是去找叙述的素材。
2007-10-27 02:41:58 常忘了我是谁
Sat, 27 Oct 2007 01:56:15 +0800 (CST)
回复:"胡新宇"
是啊,那你就拍自己吧,别拿我们当你的演员和玩具。你以为中国纪录片导演好玩儿你就是太嫩了。你想作为一个片子的独裁者?你还没有我的勇气。
什么负责日本独立片,那都是借口。自己的事情不做,我也不好再说什么了。
回复:"胡新宇"
是啊,那你就拍自己吧,别拿我们当你的演员和玩具。你以为中国纪录片导演好玩儿你就是太嫩了。你想作为一个片子的独裁者?你还没有我的勇气。
什么负责日本独立片,那都是借口。自己的事情不做,我也不好再说什么了。
2007-10-27 02:43:42 常忘了我是谁
Sat, 27 Oct 2007 01:56:15 +0800 (CST)
回复: "胡新宇" :借口
是啊,那你就拍自己吧,别拿我们当你的演员和玩具。你以为中国纪录片导演好玩儿你就是太嫩了。你想作为一个片子的独裁者?你还没有我的勇气。
什么负责日本独立片,那都是借口。自己的事情不做,我也不好再说什么了。
回复: "胡新宇" :借口
是啊,那你就拍自己吧,别拿我们当你的演员和玩具。你以为中国纪录片导演好玩儿你就是太嫩了。你想作为一个片子的独裁者?你还没有我的勇气。
什么负责日本独立片,那都是借口。自己的事情不做,我也不好再说什么了。
2007-10-27 02:45:56 常忘了我是谁
Sat, 27 Oct 2007 01:56:15 +0800 (CST)
回复:"前田"
中国独立论坛里面放一些我选的日本片子。现在忙着做字幕,有了时间肯定去拍跟老朱说好了。
回复:"前田"
中国独立论坛里面放一些我选的日本片子。现在忙着做字幕,有了时间肯定去拍跟老朱说好了。
2007-10-27 03:16:38 帮主
[这个贴子最后由帮主在 2007/10/27 07:29pm 第 4 次编辑]
为自己狡辩一下:
(1)做“大我”这样事的人大有人在。但我却喜欢“小我”啊。愿意做小人物的人太少。“大我”“小我”不过都是微观、宏观看世界的方式,研究起来都挺大的,没有谁好谁坏。看自己习惯了,人家愿意,咱管不着。“大我”可不是我提倡的啊!
(2)“道法自然”就如大勇所提及的狗和蛐蛐的故事,专业里面哪讲能这样拍的?
为什么非要单纯拍人才是严肃纪录片,拍拍火鸡就“地理频道”了?这就是搞专业的容易犯的臭毛病。自然不是人都说了算。融入自然,随其所动,和学术中让人对着镜头、让人永远当老大哪个更生动?
附:学习者、影视专业人士可参考王我的《外面》那个低头拍翻不过身的虫虫的“素材”,便可反思谁是教育体制下的的牺牲品和它的背叛者。
为自己狡辩一下:
(1)做“大我”这样事的人大有人在。但我却喜欢“小我”啊。愿意做小人物的人太少。“大我”“小我”不过都是微观、宏观看世界的方式,研究起来都挺大的,没有谁好谁坏。看自己习惯了,人家愿意,咱管不着。“大我”可不是我提倡的啊!
(2)“道法自然”就如大勇所提及的狗和蛐蛐的故事,专业里面哪讲能这样拍的?
为什么非要单纯拍人才是严肃纪录片,拍拍火鸡就“地理频道”了?这就是搞专业的容易犯的臭毛病。自然不是人都说了算。融入自然,随其所动,和学术中让人对着镜头、让人永远当老大哪个更生动?
附:学习者、影视专业人士可参考王我的《外面》那个低头拍翻不过身的虫虫的“素材”,便可反思谁是教育体制下的的牺牲品和它的背叛者。
Dy——赵大勇
Wh——黄文海
Rk——朱日坤
Wo::今天是几号?
Dy:9月6
Wo;9月6号在朱日坤家。那咱们开始聊一聊。一开始为了日本朋友了解情况,各位做好自我介绍吧。
Wh;你们是影像的?
Wo;文字的,影像无所谓。
Dy:就是咱们得让日本朋友看到中国导演创作的心态,就这个吧?
Wo:开始要自我介绍。
Dy:还用自我介绍吗?你都知道,你自己写上就完。
Wo:我让你们自己说,我知道你害羞,我非得要让你说,知道吗?
Dy:操(笑)
Wo:说吧。先谁说?黄文海你说吧。
Wh(这时候日坤回来)我…
Dy:猫还没回来?
Wh:我…
Rk:徐辛给我打电话说南京已经发现《好似不如赖活着》的盗版碟(笑)
Dy wh:我操(笑)
Wh:盗版碟都发现了?
Dy:是不是跟你一样的?
Rk:我不知道,他肯定是盗我的版。
Wh:我们那个…那个…下个月就去…什么的(笑)
Wo Dy:(笑)
Wo:说话这么有障碍(笑)说你自我介绍嘛。
Wh:我们就是那个…
Wo:不是我们就是,先说你自己,黄牛田的事情过一会儿问。
Wh:就是那个在中国拍纪录片的嘛。
Wo:你是中国拍纪录片的?
Wh:对。
Wo:然后就没了?还有话说吗?
Wh:没话说了…。
Wo:朱日坤能不能给日本朋友做点自我介绍?
Rk:我做自我介绍?
Wo:对对。
Rk:中国看纪录片的呗。
Wo:啊?
Rk:中国看纪录片的!
Wo:就这么简单吗?
Rk:嗯。
Wo:还有什么话说吗?
Rk:希望你向日本人多介绍一下中国的独立电影,特别是纪录片。不要老是只记得发行?
Wo:就这么简单?我问你的身份。没话说了吗?
Rk:也不是了。我现在一方面是栗宪庭电影基金的工作人员。另外我在现象工作室,主要做电影的制作和发行。栗宪庭电影基金主要是做独立电影资料的收集、整理,还有对一些电影项目的资助工作。
Wo:ok。大勇。
Dy:我是赵大勇,拍真实电影的。咱么得要跟那个叫,不能老叫纪录片。咱是拍真实电影的人。
Wo:后来文章是修改不了的,你应该说真话。
Dy:就是嘛。我们就是拍真实电影!不是拍纪录片的人!
Wo:ok,ok。好好。真实电影啊。Ok。
Rk:因为他不喜欢纪录片这名字。
Dy:对啊!我就是不喜欢纪录片这名字!妈的纪录电影才对!
Wh:我们是拍电影的。
Dy:纪录片就是电视台用的。就是我们是拍电影的。咱们不是说拍真实电影的。就是拍电影的。
Wo:好好。
Dy:独立导演吧。
Wo:好。
Wo:大家都是关于纪录片的,也做纪录片。朱日坤是有现象网的背景还有栗宪庭基金,和做一些纪录片的制片人,也做独立电影的发行。这次我主要想谈最近中国纪录片的动态,主要谈黄牛田电影吧。黄牛田电影是什么样的东西?还是由黄牛田的黑社会老大来给日本朋友说一说。
Rk:我是黄牛田的地头蛇(笑)。当时在广东深圳拍纪录片的刘高明组织了一个活动,邀请的人中有部分后来黄牛田电影小组的成员,就是黄文海、赵大勇、王我、徐辛,还有胡新宇,我们一起在深圳放映了这些作者的影片。我是作为一个见证人过去的,后来这些作者想一起做一点事情。实际上,要是以后写回忆录啊什么的……其实是发现了大家的一些观点是比较一致的,在很多问题上都比较有共识,所以他们就想互相有一些更紧密的合作性的东西,或者在创作啊各方面能互相支持、探讨事情。正好他们去了我老家,那里叫黄牛田村,大家觉得用黄牛田做这个小组的名字很好,所以就叫黄牛田电影小组。
Wo:那天是……
Rk:八月二十号。
Wo:可以说是正式成立了吧。
Wh:我们当时去了个“老男人的party”,当时还有周浩,不过周浩因为有些观念跟大家不太一样最后还是不能合到一块,所以这还是一个志同道合的一个(小组)。其实当时我们去的时候谁也没有说要做个什么电影小组,绝对没有这个概念。因为日坤是我的制片人嘛,有很多年的合作,然后包括大勇、徐辛、胡新宇最近参加了《童话》的剧组,都是负责做后期。我们在这个期间,日坤、王我都经常过去,我们都经常聊,聊得特别有意思。觉得居然有一帮大男人居然想的东西也差不多,而且面临的困境也差不多。但是直至去之前也没有想过要做什么电影小组。
Wo:这是谁来开始谈那个新浪潮这个概念,是大勇吗?
Rk:对,当时我不知道大勇跟王我怎么谈起来,后来就……
Dy:实际上是,离开北京的时候就做《童话》的后期。最后一天,王我他送我,中午吃饭去,就聊起了中国电影的事,那个走向啊,还有中国电影的创作人的一些心态和思想问题,其实就是分析来分析去,这就还是个新浪潮问题吧,就是说新思想这么一东西。因为现在中国的搞电影、影像创作的这些导演,现在有很多优秀的人。还有就是这些人早些年的独立电影的制作,都是处于一种初级阶段,无论技术上还是创作上,创作上就是指脑袋思想上都是处于一种探索阶段。 但是这一群人感觉创作这方面, 感觉大家都好像比较成熟了,就是没有确立一个属于我们自己的电影思想体系。在这样的情况下,又面临中国这样的体制,你没有办法通过正常的渠道去进入发行渠道电影院线等,没有办法去推广自己。 更重要的是确立起属于我们的思想体系吧。想想原来这玩意儿应该就是新浪潮这种路子了呀。你说新浪潮,这是别人的东西,那我们可能就不叫新浪潮那,那也不知道叫什么,那至少得要确认一个自己的、属于中国人的、我们这群人的群体性的思维呗。那就是聊来聊去觉得这玩意儿有点意思。刚好就是深圳这个“老男人的party”,(大家)都碰到一块了, 那就干吧,形成这样的团队。有了这样的团队呢,一可以解决目前的一些困境,这困境一个是发行的问题,我们拍完了片子该怎么样走,是被动式的去送一些电影节拿一些奖呢,还是去主动的寻找新的传播手段去推广呢。因为在中国你没有办法嘛,不可能去正规的发行DVD这些东西,只有靠自己的力量去想办法。 看这样只有大家抱到一起,去共同的解决。那么什么样的人才能抱到一起,刚好这群人是志同道合的,包括每个人的作品上都有比较成形的东西,还有思想上都有比较成熟的思路,这是非常重要的。那么这伙人凑到一起,我们就形成黄牛田,就共同去树立一个榜样呗。就是说至少我们有勇气站出来,说我们她妈的是能做出好东西的!咱也别说我们是他妈的最牛逼的或者我们才是先锋,也不要这样去标榜自己。
Wo:我觉得现在太象采访了,不太好。下面就开始瞎聊吧,我去换电池。反正介绍都做完了,下面聊什么都无所谓。
(稍微休息)
Wh:其实大家某种程度都是在拍纪录片,但其实我们做的是电影小组,其实我们还是有那个理想就是抱负(大家笑),在电影这一块。其实我们做的都是电影。包括DV这个载体的出现以后,我们认为包括我们所处的环境,包括DVD的大量出现,包括电影资讯、互联网,使我们在电影方面有可能进行知识的探索,有可能比我们的第六代第五代再往前走一步,包括那个经济上的独立、精神上的独立。
Wo:其实人家说的第六代第五代这种说法就是跟自己没关系。
Wh:对。我觉得这电影语言上的探索……
Rk:“代”本身是个很操蛋的东西,它代表的是种传承性,如果你是传承第五代或者第多少代的话这是很糟糕的。
Wo:对。因为谁来指(这种说法)你都不知道嘛。因为是人家以你的年龄来判断我觉得挺可笑的。
Wh:也许每个时代有每个时代背景和那个……
Wo:但你觉得用那么简单的第五代第六代这样的概念来概括一个时代的话那就显得整个中国电影的一种偏执。
Dy:我觉得第几代第几代纯粹是媒体炒作的骗局,它要找一种说法。媒体这帮人就是什么都不懂,他是个傻逼,就是他妈给你弄一个第五代第六代。那第五代第六代跟创作有什么关系?
Wh:但是每代都有特色性,共同点还是有的。
Rk:他的共同点只是说它是从哪个年级毕业,而不是……就是说这种(说法)还是比较牵强的。
Wo:假如说我出来是第七代吧,我不管。
Wh:不,你现在提这个问题就没用嘛。这其实是说电影的时代嘛。
Wo:反正别人给我这样的定义,或者……
Dy:你是第七代!(Wo:我不是啊。)他是第八代!
Wo:我是第零代!我是黄牛田。
Dy:(笑)我们他妈什么也不代。
Wo:对!我觉得精神上可以看到黄牛田什么也不代。
Dy:其实黄牛田你能看到他有一个很大的共性。这帮人,除了文海在电影学院他妈的进修了一年以外,其他人都跟电影学院没关系都不是学电影出身的。
Wo:(笑)对,对。
Wh:我进修好像变成了最正业的啦,哇操,这说明我挺专业的,唯一比较专业的(笑)
Dy:你一定要在你的简历上把这个划掉!
Wh:哇操!(大家笑)
Dy:耻辱你知道吧。
Wo:我先主持一下。大勇以前是做当代艺术吧,画画什么啊,还有做广告的。
Dy:对。
Wo:他也有这种……(笑)拍广告已经算是……
Dy:(对Wh)应该说我比你更专业啊!
Wh:你拍的是他妈的大片啊,哇操。
Wo:黄文海,我特奇怪,想问你你是以前电视台的是不是?
Wh:对。
Wo:干七年啦?
Wh:四年。
Wo:干完四年以后进修电影学院……
Wh:我在(进电视台)之前进修。
Dy:他先进电影学院,然后去电视台。他得感谢电影学院,所以那个简历为什么让他抹他都不抹掉。
Wh:在电影学院,我那个时候至少比你现在上电影学院要好。我们请的老师是最好的老师啊,
Wo:周传基?
Wh:教学教得最红的,一年要交六千块钱呢。
Dy:对啦。我告诉你啊,其实这是啥啊,就是这些人啊都是在本身对电影的爱,这是前提。
Wo:电影狂。
Dy:操你妈个逼,我就喜欢这个。我告诉你我说白了,我到98年还没有去做电影的欲望。我知道我在拍广告,但是我根本就没有那种欲望我要去拍电影,我要去他妈的自己拍真实电影,拍纪录片,是吧。真的我绝对没有这种欲望。我那时候还是一门心思的就是画,就是在当代艺术这一块来做点事,还是完全没有这种概念说要干这个东西,所以你们是前辈。
Wh:(笑)
Dy:但我那时候尽量说服我身边所有的朋友,我说服了两个,一个去电影学院学录音,一个他妈的去学表演。就是我说“诶,你应该去他妈的,你要是热爱”——因为他们都爱这个东西嘛——“那你就去电影学院去学。”但我没有这种想法。
Wh:你应该去导演。你在这事前已经……
Dy:我这是导演人生!
Wh:你已经把你的后期人员和前期人员全部弄到。
Dy:对,就是说那个录音,就一直想要跟我拍片子,现在尽是拍大片呀之类的。然后我是到了从美国回来以后,那个时候就是人啊一下子就是乓铛一个跌到他妈的谷底去,我从美国回来他妈身上只剩下两百三十美金。哇操,我不知道我回来干啥。你似乎已经适应了美国的那种生活了,那种状态了。回到国内以后吧,哇操你觉得走到哪儿都不对,出去干什么什么都觉得不对劲,那种心态。操他妈为什么要这样?其实他妈了个逼你离开这里一段时间你有一种陌生感,然后人也不知道干什么,我也没钱,完全不知道干什么,瞎鸡巴乱干最后还是做广告吧,赚了点钱。诶,操他妈个逼我应该去拍纪录片,我说这个玩意儿挺有意思,我发现这个玩意儿应该比画强。但那个时候还没做出来,就亏了那四十几万,亏了以后我还是要回头弄当代艺术那一块。
Wo:你那时候留长头发了。
Dy:嗳,那时候搞策划搞展览,做作品。就那个时候,当然我那个时候还是一门心思地琢磨电影,就是琢磨,但是上来弄就纯粹是讲哎呀,没别的想法了他妈的,换个脑子吧,就还是在琢磨。后来我拍上了《南京路》以后,还是影像好啊!。像有一些艺术家的作品,你他妈把棺材做成圆的,它也不管用,他也不如影像那么有力度。它是声音、光,电所有的集成。它给人的感召力是最直接,有效。:换句话来讲就是说我还真的不是说我看了谁的大师的电影,怎么样,我才去做电影。我的心态跟你们都不一样,你们看了很多电影然后感觉到电影如何如何,我完全是把电影这种东西当作一种材料去搞创作。
Wh:你开始从事的是艺术家嘛。
Dy:就是!这种切入点我们是不一样的。但恰恰这一次在老艾这个《童话》这里,我跟他一接触,诶,发现东西越聊越多,就谈得比较投契啊,就是大家思路似乎都那么碰到一块去。我不管说我是从当代艺术这种出发点介入,还是从剧情片、故事片这种纯电影的角度介入,但大家走来走去都走到一个点上去了。实际上创作是什么,其实是还有一个共同性在那里,而这个共同性就是什么,就是人,他妈的,你也认识到的,因为我们是同一种动物,都是带有思想的。这种东西,共同点。
Wh:这就是黄牛田为什么能够志同道合。就是说各个人的出身都不一样,搞设计的、有些搞当代艺术的、有些学广告、我可能最早也是电视台的、记者呀,或者拍纪录片。它突然有一天,因为以前谁跟谁也不搭界,各自忙各自的,有时候朱日坤搞个活动咱们去聚一下。就去年我就觉得,嗳,那种活动比较频繁以后,大家里聊得比较多,现在因为有一个共同的事情在做,而去聊得更深入。有一个月时间,大家都住在宾馆里面。比如像我,大勇对电影的那个(经历)跟我可能不一样,当时我就是喜欢看电影,当时我们家里有那个家用录像带、后来出来了有那个牛皮纸袋的VCD、还有DVD、还有D9。可能一部片子有好几个版本,我们当时哇操就喜欢看。而且可能当年要搞资料嘛,都非常麻烦嘛,还要去请那个电影资料馆的朋友吃顿饭,然后去录带子。然后就是有一次录他妈的,那个《感官王国》嘛。我一直以为那个《感官王国》是黑白的,因为它给我录那版(是)黑白的!黑白的《感官王国》,所以很长时间我都以为是黑白片,实际上后来DVD出来以后,是彩色的。挺好玩的(Wo笑)就是大岛渚的嘛。挺好玩的,其实也就是说为什么大家能走到一起,就是,哇操,包括王我,他从设计出身的。但他一出手的东西,比如说《外面》和《热闹》,因为其实是一个片子嘛,那这两部片子的话,诶,你会感觉,哦,有可能另外的跟我们的这种背景的人不一样,哦,他可以这样看世界,是吧?
Dy:他对世界的概念很直接很概念化不依靠线性说事,这是我们所有人都没有的。
Wh:反正就是说在我们这些在中国看片子比较多的人(看来),哎呀……
Wo:我也觉得王我他的片子吧,特别直接。跟我们这种被理论害的人就不一样(笑)。而且,我们可能首先拍东西的时候首先考虑结果,那王我他那种就是特别新鲜。
Wh:可能是因为你首先有一个成年人的观影观念在这儿。
(更换电池)
Dy:所以这就是他有力的一点。 他分析到了他自己内心里去。所以这个做电影,不管是剧情片也好,真实电影也好,都是一样的,都是一个问题。
我不知道你们对那个阿巴斯的那个什么樱桃什么来着,就是一个人自杀的那个,
Wh:《樱桃的滋味》嘛。
Dy:诶,《樱桃的滋味》,其实那个阿巴斯在拍的自己呀!
Wh:就是啊,都是拍自己。
Dy:就是拍的自己。哇操,那也是剧情片,对吧?他不是观察事的,为什么他就……这个玩意儿你把你呈现出去,你处在这个地方,你把别人处在这个地方让别人去看了别人去感受你,这他妈不可能!你把你自己处在这个地方,绝对是他妈的……
Wo:我有一种自觉吧,就是小小的自觉,就是我的感觉是我为什么有资格去观察别人,我为什么去观察呢?这没什么跟自己有关的东西,我觉得必须要从自己拍的东西当中能够要找自己,然后才能做下去。反正我不管什么,电影是能成立不成立,我首先要看我自己的心态吧?能不能做下去。片子做好做不好首先不是个问题,首先(应该是)自己能不能给自己一个答案,那种(感觉)。
Dy:其实也不是给自己答不答案的问题,永远都找不到答案,不可能找到答案。所以你永远是在探讨自己,不能说是给自己答案。因为你每一天的生活状态,比如说看到的,比如说感悟到的东西都会不一样。
(更换磁带,稍微休息)
(Dy开始聊现在拍的纪录片)
Dy:灶灰它不是起消毒作用吗,同时它又有营养,比化肥还有用,同时呢它又不招虫子。诶,我跟他们一讲。他们说这样啊,一个土豆,啪啪啪。本来他妈的他买了半袋子土豆,要他们那种种法,他妈的都不够。我这一切,只是一半拿来吃,一半那样一排,浇点什么的,
Wh:长出来了吗?
Dy:长出来了,特别好。然后后来就在当地传开了,包括今年春天,我他妈刚到第一天我没怎么拍,先跟他们去种地种玉米,哇操大热头晒得要死。然后我诶,种地挺有意思。乓一刨,我自己刨的时候,我一刨他妈的土里就蹦出那蛐蛐你知道吗,这么大的蛐蛐,黑乎乎的。怎么那么多啊哇操。诶,我说这玩意儿他妈的就想起那个以前学过那课文,妈的就是说农夫在耕地的时候“喳”一耕地然后一鸟“啪”来吃虫子那个食物链,那种感觉。诶,这挺好的,然后第二天,我带机器,拍他们刨地。他们这村子呢就是一户帮一户,就是今天我帮天,今天所有人都来帮你这一家种地。帮你家中完以后然后轮到我,所有人都到我家去。水开始准备好,然后吃的,到中午的时候要送吃的过来,几十人。但那的地方全是大山你知道吗,感觉那脸跟地距离挺近啦,一排,操,三四十人然后拿着镐头锄头,汽哩夸啦!汽哩夸啦!地刨地!那声音那种节奏感啊我就想起那个北野武有个电影……就是那个《座头市》,你看过没有?就是那个农民在田地里噼里啪啦弄那个,诶,其实那节奏感就那个样你知道吧,汽丽咔啦,一上一下,一排嘛,就是有起有落有起有落的感觉。然后一刨的那个时候地上那个蛐蛐“喳”地跑出来,我的镜头“嘱”就跟着那个黑蛐蛐,特别好。然后赶牛那个牛犁,他没有机械,全是最原始的,“夸夸夸驾”(赶牛的拟声)那牛“可——”犁地你知道吗,镜头还在拍那个蛐蛐,我也不知道那牛过来。拍那蛐蛐对着地特近,突然那牛过来了,嘣一蹦,那土“夸——”飞出去,就是那个犁是尖的嘛,它一分,土就飞起来。诶,操他妈的,这感觉特别好,然后我才找到人与自然的这种东西。再加上我去年拍的时候,其实我第一天到的时候我因为我们是什么,得要适应环境。一个是我首先得让村里的人习惯我手头的这黑乎乎的东西,得让他们他妈的别对那玩意害怕。我天天抱着它,他妈干什么我都抱着它,然后让他们习惯了,这个人整天拿这东西也没啥。
我就拍狗,拍了一条狗叫小灰,看到这狗挺好,跟其他土狗不太一样,还挺可爱。因为什么,因为它的脸象猴子那个……孙猴子的那个造型,毛是红的,其他的毛都是长的。我说这他妈挺好,长毛的还挺可爱,就小灰。然后我就喂它,诶,喂来喂去的他妈跟我混熟了你知道吗。实际上什么,它那个毛啊,它脱毛的时候啊,它脸这一块先脱掉,其实它还没怎么脱掉呢就刚好这样一个猴子脸,挺可爱的小狗,就拍它。就拍的时候呢,我就喂它一次,买了点面包我就喂它。结果喂它它还不吃,诶那奇怪了,怎么不吃?然后旁边站了一条黑乎乎的一个狗,那个狗特别丑我一看他妈的要赶它,长得他妈的黑乎乎的,然后那个耳朵吧也半立不立的那种狗,癞嘛吧唧的,看着就是不好。挺讨厌,诶,我就去去去去去你别看我,我喂它。我一放,还不吃,我说这他妈奇怪了。然后我就起来,然后那个狗过来,啪,一口吃掉。然后,我再一喂,小灰才吃,哇操我发现了他妈的原来这他妈是,其实这个狗啊,它们是人养的,但是它们是属于……他们养狗啊,他不是特定要喂食给它,他不是说我每天到时间要喂它食,专门给它一碗饭喂它。不是,他们根本不喂,这是我家的狗,但是他们不喂。就是在喂猪的时候,那个猪食桶啊,匡当往那旁边一放,那狗就怕进去瓜拉瓜拉吃了。就是这样属于半野生状态,所以它有野性。然后发现他妈的这个废城里头的狗太多了,有他妈几百条,就狗多到那个程度,三更半夜那个狗之间的那个打架的那个……这边咬起来那个声音汪汪汪,整个废城全是狗在叫,哇操,他妈吵死你你知道吗。就是狗在叫,哇哇哇哇哇操。然后我就发现原来那只头,吼的那个狗是头啊。哦!又试探了一下,就是这样,它得先吃完了以后然后它才吃。我才想起来我不看了那个电影,有个北极犬,上映那电影。我看了之后,诶,我就联想,这是野性。然后我就开始跟着这个狗开始拍,小狗他妈的长得不大,但是他妈的繁殖力特强。他妈到处去找他妈的母狗来干,他妈的追狗,谈恋爱。(大家笑)他妈的逮了他妈那么大的狗,比他大一倍,上去和她干。我第一次拍的时候,“帮”一上去干我还不好意思了,还把机器关了,你知道吗?(大家笑)哎呀,真的,真是不好意思,它那个一干我那机器就不拍了。后来我去,哎哟哇操,小狗跟一大狗咣咣咣干,你知道吗,就在废城的街道上。然后我发现他妈的这是属于东头的头,原来西头还有一个头,两伙,它一越界,打架,一越界,打架。太他妈搞笑了然后争女人,争他妈母狗,然后他妈的,这时候我就拍这些。其实完了之后我今年四月份,我就拍那些虫子啊,那个蛐蛐,“喳”一蹦出来的时候。哎呀,那狗拍对了,食物链。你看那个,他们农民烧完竹以后摆在地上的、桌上的那破的那个编织袋,撕开了铺在地上,塑料布,然后把肉一条一条往那一弄。他们那个切肉不象咱们有切肉的那种刀,菜刀,他们就是那种砍柴的那种砍刀。啪一下来,这种造型,哇操那他妈真凶,象咱们的切肉他们是砍肉。匡当,匡当,砍得还挺准。一刀下去保证第二刀下去就是占那地方。夸,夸,这样,一块肉,一称,称重。哇操他妈的一群狗围着一圈,等着那肉,哇操,嘴就有时候……然后有时候卖肉的人就赶,一赶,夸,一跑。那狗一看有一块小肉露出来了,乓一口,叼着就跑。就是那种人他妈的跟那些狗之间的关系,然后狗还……动物与动物之间还斗,他们养火鸡你知道吗,你见过火鸡没有?
Wh:没有。
Dy:火鸡巨大,哇操他妈,这么大一大火鸡。火鸡他妈一来情了以后肉“夸”地上来,象他妈的贵妇一样,那个肉红红的挺漂亮。火鸡啊,那狗打不过火鸡,火鸡特别团结你知道吗?(Wo笑)那狗啊没准想咬那个火鸡,火鸡集体围攻,哇那么大的狗他妈一群火鸡在围攻一个狗,狗夹着尾巴在跑。满街都是火鸡。
Wo:(笑)好好,那现在还有十五分钟吧。
Dy:还是黄牛田吧。
Wo:是。(大家笑)你那个是现在拍的废城,废城的一个素材啊。
Dy:就是观察那个废城的片子。
Wo:我明白他就是不会以那种观察(的视角),自己喜欢拍什么就什么都拍,然后再……
Dy:然后真正就是你融进去。
Wo:对,融进去。
Dy:就是说你已经,就不说你是农民,但是至少你要把这种生活带到你身边来。
Wo:对。
Dy:然后通过你在这个最普通的这些农民最简单的生活方式里头理解到生命的意义在哪里。你自己的这种,我……真正的这种……所以为什么胡新宇老提什么大我啊,什么他妈才叫大我,实际上你是在找一种源。找你自己内心里的,分析你自己内心的那个原子。什么,说得太玄了,哇操,说到原子了。
Wo:我听你说的那种狗的(笑)从狗的身上能看到这么多的问题(笑)确实挺好玩。
Dy:包括他那里的人哦,其实生活就是那样我那个片子就是什么呢,哎呀,人其实就是动物,思想都是他妈“雷废”,都是理性,还得要感性。
Wo:感性啊。你刚才谈到一个大我的问题,大我你认为具体说什么?大我什么意思?胡新宇说的吗?
Dy:没有,他也不算……他说什么来着,什么自然?
Rk:道法自然。
Dy:道法自然。我也没明白。(笑)
Wo:自然主义吧,是不是?
Rk:不叫自然主义,这是老家思想。但是胡新宇怎么理解我觉得他没有表述得太清楚。
Dy:(笑)他是说从哪里学这么一名词是吧,怎么用上来了?
Rk:中国认为老家是比较稀古的一种思想,它是比较玄的一种哲学。
Wo:他还谈到那个艺术的循环吧。意大利的那种回到古典的那种……反正艺术就是一种循环。就是没有什么新的……
Dy:他他妈更玄,他迷宗全似的,你摸不到。
Wo:好好,那就黄牛田吧。那现在剩下十二分钟。反正简单地总结一下吧。
Rk:文海总结吗?
Wh:那现在落实到行动吧。再说行动吧,现在就是想弄一个套装嘛,我们认为……现在最关键的是我们的片子没法流通出去。
Wo:对。我想先确认一下就是那天写了几个条,我还记得几个,第一个就是不接受审查,然后还有……
Wh:作者拥有完全的剪辑权。
Wo:剪辑权,还有什么呢?
Wh:还包括一些就是道德上的要求。
Wo:黄牛田可以理解成是电影小组吗,还是说是电影精神上的一种态度?咱们那天就是有一个共同的确认就是黄牛田是一个态度。
Rk:是这样子的,我觉得起码说是志同道合嘛。它既然是一个小组它并不是有很强的约束性,它也是大家很常在一起然后发现大家比较相近。
Wo:算是成立了这个组了吧,现在落实到发行了吧?
Rk:其实是两个方面,一个是创作,一个是推广。就是说我觉得还有一个点就是能够引起一些注意也好,或者说能够做一些推广。我觉得这也是挺重要的,因为你……就像你……也是希望自己的东西为别人了解。就是刚才大勇说到……其实选择(纪录片的方式),你把它当作材料也好,很多人一开始就是很自觉的。我们谈到这些人都不是所谓专业背景,但是因为他是有一种表达的愿望,那他肯定希望自己的表达能够被有所了解。所以我会做一些推广的事情。
Wo:我能感觉到一些命运性的东西,我目击了中国纪录片历史的变革。
Dy:电影!电影!
Wo:纪录电影,好。
Wh:其实在这之前,很多年以前,九十年代,其实也有实践社啊、缘影会,北京有实践社,广东有缘影会。它都是那个电影爱好者看片子呀。但是我们更多是那个作者在一块。我觉得而且……大家还是有共同的问题是吧?希望献出一些共同的力量。
Rk:其实我觉得要是有些东西说直接一点我觉得这些人对中国社会本身都有他的批判性的看法,就比较接近知识分子……大家可能不表示说同意,说出来会有点太大,但是我觉得很简单。因为中国这个社会比较复杂,它有它很多的问题。
Wo:这也是一方面。
Rk:这也是大家选择纪录影片的一种方式。这是很重要的一点,你本身不能回避你存在的社会。
Wo:因为中国在电影这方面还是有垄断的背景。
Rk:不仅仅是说电影这方面,整个社会都有很大的问题,从这个言论方面,它是一个言论被控制的;从政治体制来说,它是一个集权性的国家。
Wo:那你想组织这个黄牛田,以后你想怎么改一些创作也好、发行也好……现在有什么想法?你刚才举了例子就是包装嘛……
Rk:不算是包装吧。就是寻找一些途径。
Wh:必须说当你一个人的时候你是会很孤单的,但是我们这样的组织经常在一块聚聚啊,或者做一些……这种情况下是互相的一种鼓励嘛,一个帮助嘛。
Dy:就像这个我一个人的时候拿出来只是一个火星,但是我们这几根火星往这里一凑,它就变成一堆火。
Wh:火苗了!
Dy:就变成火苗了!但是如果一撤开这个火星的活它持续不了多久,它就没有了。慢慢大家就……这种面对自己的社会和自己所要探讨的问题就没了,不存在。但就像,诶就变成一个火苗,这个火苗它能(亮)到什么程度,那就看吧。
Wo:我记得当时有一个条是必须要互相批判,必须互相提个意见。
Dy:这叫学术探讨,就是说大家作品之间也要交流,这样一个过程,毕竟是一个创造组嘛。那么每个人独立的创造东西,当时形成一个学术气味,互相之间探讨一些真正的思想上的东西呗。所以像我们这个黄牛田这拨儿人,实际上为什么能出现这样的一拨人,每个人其实都是生活在这样的特定的社会背景下。然后所得到的经历,你看这些人都是三十都岁的人,而且我们每一个,我们这群人经历中国最复杂一个的阶段,而且变化最多的,看到的东西,感悟到的东西最敏感的一个阶段,而且我们在这个年龄这个敏感的问题的思考越来越成熟了啊。就是说觉得我们应该有一种东西来剖析我们自己的社会,剖析我们自己的生活。因为这个时代,我们所处的这个时代和这个生活状态,我们所要做的东西做的工作实际上就是这个剖析自己,剖析我们,这个社会。我们是混着这个社会, 这种体制下没有哪一些人去真正去做这事情。而且利用一种纯粹的手法,电影的手法去来剖析这个社会。抛开刚才说的“大我”“小我”,抛开自己这些东西,责任感吧。这就是社会责任感。是吧?
Wo:你是这么理解。社会责任感是吗?
Dy:因为你面对你眼前所看到的东西,它跟你的生活是分不开的。
Wh:其实还是说,稍微大一点的方面讲老男人有一个就是“担当”吧。我觉得应该有“担当”吧。
Dy:对。
Wh:对你,也对你的社会有个“担当”的问题存在。不过黄牛田如果是电影小组,我们这个时代这些人应该担当这个时期。这时我们可能就是……
Dy:做点事。
Wh:对对。也无法回避的嘛,也是应该的嘛。
Dy:所以说在战争年代劳苦大众处于饥渴的时候,我们如果像那个时候我们可能会担当一点……啊……打家劫舍、劫富济贫,哇操,这种角色嘛。但时代不同了嘛。
Wo:我明白。
Dy:因为哇操我们太爱这个国家了。就是你太爱自己的家,那你爱的过了头就得要批判,就得要剖析是吧?要分析来解决问题。
Wo:那就举个例子说主要是针对审查制度?
Dy:这个不是,不是这个问题,很多很多……
Rk:审查制度仅仅是中国社会问题中的一个表现出的一个问题。放在大环境(的话),这不是特别重要的问题,它只是说对电影制作发行的障碍。但中国别单说谈电影了,就文化来说艺术来说面对着这么多的阻力和问题,更不用说你放在整个社会来说……它的复杂性不是我们所能简单解释的。大家都会去探讨这个问题。同时你是带着一种负责任的态度去探讨。
(大家:“嗯”)
Dy:磁带没了。
Wo:你看到了(笑)
Rk:我觉得这种东西你在中国,你生活了一定时间,经历很多东西你可能会有感触。
Wo:那你就是最后一分钟你代表黄牛田老大给日本人介绍一下黄牛田。
Rk:我其实不能代表,我觉得每个人都可以代表,但可能每个人都会有他的理解。
Wo:这就是黄牛田。
Rk:对。我觉得这挺重要的。
Wo:每个人态度上是志同道合,做法上都是独立。
Rk:对。而且我觉得最主要是每个人都保持他独立的判断和思考,在一起……
Wo:这就是黄牛田。
Dy:它有共同性,但是,它也有不同。
Wo:不同就是有价值。
Dy:对。就是每一个人要有各自的主观的东西,但是同时大家有共同的要解决的问题。道是和的……
Wo:还有你们说“对电影的爱”。
Dy:诶,其实他妈说白了,我真正并不爱电影。
Wo:(笑)
Dy:他们才是真正对的爱电影哪!
Wo:磁带没了,你最后一句话是(笑)赶快弥补一下。
Dy:我是……爱我的生活。
Wo:什么?再说再说。
Dy:我爱我的生活!
Wo:(鼓掌)ok。ok。结束。这句话太好了!
Wh:你怎么跟那个南方都市报一样?弄个标题呀,然后就(鼓掌)(笑)
Wo:南方都市报是为了答案,这是我的感受。以后我拍纪录片我把自己放进去。我就是想听你这句话(大家笑),就是“对生活的爱”作为结束。
Dy:去他妈的还找到点了(笑)
编辑:李青山 前田佳孝